蔦重は素人同然の東洲斎写楽を起用するという大博奕に打ってでる。
寛政6年(1794)、衝撃的ともいえる、これまでの役者絵にない、極端にデフォルメされた役者絵が販売された。
少し横道にそれるが――蔦重という本屋が機をみるに敏だったことは論をまたない。細見、黄表紙、狂歌、美人画といろんな分野で大ヒットを生んでいる。だが、実は蔦重オリジナルのものなんて本当に少ない。細見と黄表紙は鱗形屋が先鞭をつけ、狂歌集の初ベストセラーも他の本屋。美人画だって鳥居清長という先人がいた。京伝の黄表紙デビュー作も蔦屋ではない。
それにもかかわらず、蔦重は偉大な本屋であり続けた。彼がヒットの芽に「こうすればもっと売れる」と水をやり大木に育て、たわわに実をならせた事実は揺るがない。蔦重は卓越したアレンジャーでありコーディネーターだった。
写楽は蔦重が種からまいて育てようとしたレアケースだ。
あまりにリアルな写楽の絵は当時の歌舞伎ファンに嫌われた
写楽は現代でこそ評価が確立し、誰もがその名を知る浮世絵師になっている。
ところが、寛政の時代は高い評判をとれなかった。少なくとも半分に削られた蔦重の財を元に復する利益は得られなかった。その理由として、写楽の絵があまりにもリアルだったことがあげられる。役者絵は役者を美化してこそ売れ行きが伸びる。それなのに、蔦重が描かせた絵は老醜を隠さず、役どころの憎々しさまで冷酷に表現している。歌舞伎ファンがそっぽを向いたのも当然だった。
苦肉の策として、蔦重は写楽に人気ジャンルの相撲絵も描かせたが……。
写楽の活動はわずか10カ月で終わる。現存する作品は140点しかない。近年では、彼が阿波藩お抱えの能役者だったとされているものの、今もって謎が多い絵師だ。
写楽登用から3年経った寛政9年(1797)、本の値打ちを変えた蔦屋重三郎は逝った。享年48。江戸病(脚気)が原因だとされている。彼に子はなく番頭が跡目を継いだ。しかし二代目は蔦重を凌駕することはできなかった。江戸随一の出版人の墓は、吉原から2kmほど離れた東浅草にある。
最後の最後に――本稿を担当した私は『稀代の本屋 蔦屋重三郎』(草思社文庫)を上梓している。この小説の表紙でも、蔦重はニッコリと微笑んでいる。だが、人の好さそうな表情に騙されてはいけない。蔦重という男、胸の内では本の値打ちを変えてやろうといろんな策を練っているのだ。