「みんなの心も暗いはず」
穂村 「18歳 女 冬野きりん」の歌を、もう少しだけ紹介しようと思います。
足早にすり抜けてゆく 花々が私に気付き無視する前に
冬野きりん
穂村 この歌の舞台は、華やかな女子大生が大勢集まっている光景ですね。それがお花畑のようだと。で、その横を仲間に入れない一頭の動物のキリンが、足早にすり抜けて行く。花々はキリンのことなんかは眼中にありません。けれども、キリンは花々が怖い。「気づかれたとしてもディスられることはないとわかっている。ただ無視されるだけ。でも、無視されることがわかっているから怖い。無視される前にすり抜けていこう」と、イメージしました。
ミサヲ そのとおりです。ははは(笑)。
穂村 もう一首、ご紹介します。
こんにちは私の名前は噛ませ犬 愛読書の名は『空気』です
冬野きりん
穂村 自分の名前を「噛ませ犬」だなんて、こんな自己紹介がこの世にあるのかよって思うんだけれども。
ミサヲ ははは(笑)。
穂村 「愛読書の名は『空気』です」と、最初に読んだときは不思議な気持ちになりましたが、「空気を読むっていう意味なんだな」とわかりました。
噛ませ犬は、本命のスターが強くなるための踏み台なので、負けることが最初から分かっているんです。そんな噛ませ犬を「必死に空気を読んでいるだけの存在」と詠んでしまうなんて、18歳が書いてしまうことの暗さ(笑)。
ミサヲ うん、暗いですよね。あはは(笑)。
穂村 暗い。
ミサヲ でも、私と同じぐらいにみんなの心の中は暗いと思っていたんですよ。
大学の教室で、私が一番孤独かもしれない。けれども、もっと孤独な奴も同じように考えているだろう……と、ありがちな発想です。
穂村 まあ、その後、冬野きりんさんは「短歌ください」から消えました。投稿が途絶えるんですよ。
だから、僕は、ズーッと……僕だけじゃなくて、この本を読んでくれた人はみんなが「ペガサスの歌を作った少女は、あんなに寂しくて、孤独で、ペガサスは現実には来てくれないだろうから、どうなってしまったんだろう」と思っていた。そうしたら、突然、消息がわかった。
「冬野きりん」はなぜ復活したか
穂村 冬野きりんさんが、ハイパーミサヲとしてネット上に現れたのは何がきっかけでしたっけ?
ミサヲ Twitter(現:X)とnoteです。あらましを呟いたあとに、noteに記事を書きました。
穂村 覆面女子プロレスラーになっている事実が、インターネットを駆け巡るとドカーンッと沸き立ちました。特に、短歌で冬野きりんの作風を知っている人はとても喜んだ。
でも、僕はハイパーミサヲさんの過去をうっすら知っていたんだよね。
ミサヲ 本当ですか!?
穂村 昭和のプロレスをテレビで熱心に見ていました。今だとインターネットで文章や動画にも目を通しています。プロレスのギミックの進化を追いかけてきました。
で、ハイパーミサヲさんの得意技を検索すると「チキンウィング・フェイスロック」だと。「もうペガサスに頼まなくても自分で殺せるんだな」と思いました。
ミサヲ ははは(笑)。
穂村 どうして「冬野きりん」の過去を急に明かしたんですか?
ミサヲ 2020年に明かしたんですが、実はあのとき、プロレスラーを引退するつもりだったんですよ。引退前にハイパーミサヲをぶち上げようと思いまして。
ほら、プロレスと短歌の組み合わせってギャップがすごいじゃないですか。「冬野きりん」を覚えている人はいないかも知れないけど、プロレスと短歌の組み合わせは面白い。
なんでしょうね……最終回に向けて、自分の物語を勝手にまとめようとしていました。暗い過去をあまり語ってこなかったので。
穂村 密室で文字を推敲する短歌と、リングでライトを浴びて闘うプロレスの間には、大きな隔たりがあるように見えますが、実はそうでもない。
スポーツの中でもプロレスはすごい特殊なジャンルなんです。スポーツでありながらも、芸術でもあり、かつ演劇でもあるみたいな。
特に演劇性。プロレスはそれぞれキャラクターを立てて闘う。そして、物語を肉体で作り出す。
こんな目で見ると、さっき紹介した「噛ませ犬の歌」はすごい。「こんにちは私の名前は噛ませ犬」を読むだけで、プロレスファンは長州力さんの名台詞を思い出すんですね。
長州力さんは、かつてアマレスで活躍していたエリート・プロレスラー。でも、プロレスに来てからは微妙にくすぶっていました。で、長州力さんのライバルに「ドラゴン」と呼ばれたイケメンレスラーの藤波辰巳さんがいる。ドラゴンなんてスターを約束された通り名だよね。
ミサヲ たしかに。
穂村 一方、「長州力」っていう名前はさ、なんかこう……お相撲さんみたい。
ミサヲ そうですね。
穂村 昔であれば、力道山や豊登とか、お相撲さんにちなんだ名前はあった。でも、今の時代に「長州力」はいかにも地味。
で、長州力さんが名台詞を言ったのはこんな場面です。とある試合で、味方であるはずの藤波辰巳さんに、突然、長州力さんがバトルを仕掛けた。みんな意味がわからなかった。一緒にいたアントニオ猪木もわからなかった。
結局、長州力さんはギリギリに追い詰められるんですが、その時、言ったんです。「藤波! 俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ」って。
これが物凄くみんなの心を打ってしまった。つまり、世間の多くの人々はスターではないので「自分も長州力だ」と気づかされたんですね。
それから歴史が変わりまして、「長州力と藤波」はライバルとしてバトルを重ねていくようになった。
18歳の冬野きりんさんに噛ませ犬の魂が宿っていたとはね(笑)。
ミサヲ ははは(笑)。「噛ませ犬の歌」を作ったときは、長州力さんの名台詞は知りませんでした。もちろん、長州力さんのことは存じていましたが。