15年前、彗星の如く現れた短歌少女がいました。名前は「冬野きりん」。雑誌「ダ・ヴィンチ」の穂村弘さんの連載「短歌ください」へ投稿に投稿を重ねた結果、彼女の歌は注目を集め、連載の単行本化の際には帯の惹句に選ばれたほどでしたが、一瞬の輝きを放って、消えていきました。
しかし、その彼女は現在、覆面女子プロレスラー・ハイパーミサヲとして活躍していたのです。プロレスデビューから8年、「短歌もプロレスも割と一本の筋でつながっている」という彼女が、久々に穂村さんと劇的再会。文藝春秋にて対談が行われました。穂村さんとの出会いから、「短歌」という表現手法、実際の作歌スタイルにプロレスとの関係まで、お二人の作品も鑑賞しながら繰り広げられる、短歌界の“プロアマ異種格闘技戦”です!
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大学のスタートダッシュを間違えた
穂村 お久しぶりです。
ミサヲ お久しぶりです。
穂村 僕は「歌人」の肩書きで短歌を作る仕事をしているのですが、新聞や雑誌の投稿短歌欄で選者も務めています。
私が選者を任されている投稿短歌欄のひとつが、雑誌の「ダ・ヴィンチ」に連載されている「短歌ください」です。この欄がきっかけでハイパーミサヲさんと出会いました。15年ぐらい前のことです。
当時のハイパーミサヲさんは18歳。「ハイパーミサヲ」を名乗るプロレスラーになる前だったので、ペンネームは「冬野きりん」でした。
短歌を作るきっかけが「短歌ください」だったんですか?
ミサヲ いえ、違うんです。
短歌を初めて投稿したとき、田舎から上京してきたばかりの大学1年生でした。入学したのは青山学院大学だったのですが、友だちがぜんぜんいなかったんです(笑)。たぶん、スタートダッシュを間違えたんだと思います。
で、新入生のオリエンテーションが開かれた青山キャンパスは、割と近い場所に、TSUTAYAがありまして。その最上階にある、なにやら小さな本がたくさん並べられたところで暇を潰していると、平積みにされた『求愛瞳孔反射』に目が止まりました。
穂村 ああ、私の詩集ですね。
ミサヲ はい。ちょうど刊行されたタイミングでした。孤独な大学1年生の私には『求愛瞳孔反射』のタイトルがグッときてしまったんです。
これが穂村さんとの「ファースト出会い」です。詩集の内容が私にどんぴしゃり(笑)。「この方は何者だろう?」と気になっていたら「あ、歌人だ」と。それまで、短歌のことはぜんぜん知らなかったんですけれども。
穂村 ま、普通そうですよね。
ミサヲ 詩集の内容が魂に響きました。それからというもの、穂村さんの他の作品が気になり、第1歌集の『シンジケート』や、たくさんお書きになっているエッセイを色々と読んだんですね。
で、若さゆえの思い込みから、ウワーッと本気になってしまいました(笑)。「今の気持ちを穂村さんにぶつけたら、きっと理解してくれるだろう」と思ったことから「短歌ください」のコーナーに送ったわけです。
穂村 ははは(笑)。インターネットで送れますからね。
『求愛瞳孔反射』のタイトルが「きた」とのことですが、ヤバい感じがしますよ。「愛を求めすぎたので目に異様な光が宿ってしまいました」みたいなタイトルですからね。これを手に取るようでは孤独感がうかがわれるというか……。
ミサヲ そうですね。私の精神状態と完全にリンクしていました(笑)。
愛の究極形としての殺意
穂村 「ペンネーム・冬野きりん」こと、18歳のハイパーミサヲさんが送ってくれた短歌が私の胸を撃ち抜きました。
ペガサスは私にはきっとやさしくてあなたのことは殺してくれる
冬野きりん
穂村 見た瞬間、全身に電流の走るような衝撃を受けましてね。私は送られてくる短歌を、毎日、何百と読んでいるので、どのようなパターンにもめったに驚かないんですが……。
ミサヲ えぇーッ!
穂村 18歳の少女が、これを書いたのかと。思い浮かべたのはこんな情景です。「女の子が寂しい気持ちで自分の部屋に一人いると、不意に窓から光り輝くペガサス——つまり、翼の生えた天馬が入ってくる。驚く女の子に近づいた天馬は、彼女のほっぺたや手をなめた。すると、言葉は交わさないのに、天馬は“何か”をわかってしまう。そして、頷くような表情をした天馬は、再び夜の空に飛び去って行く。『ああ、ペガサスはきっと、あの人を殺しに行ってくれたんだ』と、女の子は思う」と。
憎しみの歌ではないことが直感的にわかりました。女の子は“あなた”をすごく愛しているんですね。でも、その愛は、この世ではどうしても成就しない。だから、愛の究極形として殺意が描かれている。描かれている孤独感に衝撃を受けました。「冬野きりん」の名前が、一発で脳に焼き付いた。
ミサヲ ふふふ(笑)。ありがとうございます。
穂村 この歌を作ったときのことを覚えていますか?
ミサヲ 既にお話をしたとおり、当時の私は孤独MAXでした。孤独の純度がかなり高かった。まあ、私の理解者がいなかったんですよ。
一方で、私のことを理解してもらいたい憧れの人は大勢いました。でも、その人たちは、絶対に、私を仲間には入れてくれないだろう——こんな状況だったから「愛憎」みたいな思いを抱いていました。穂村さんのおっしゃるとおり「愛ゆえの殺意」ですね。
穂村 時々、「愛と殺意」について考えるんだけども、ニュースを見ていると、恋人を殺してしまったみたいな出来事は珍しくない。こんな風に言ってしまうとナンですが……。
つまり、愛と殺意は結びつきやすい。体力がある人は自分で殺すでしょう。お金を持っている人だったら、殺し屋を雇うかもしれませんし、権力があれば部下に殺しをやらせるかもしれません。でも、体力もお金も権力も、どんな力も持っていない人は、愛や殺意を強烈に抱いたとしても、現実的には何もできない。祈るしかない。
僕は、冬野きりんさんの「ペガサスの歌」は“祈り”だと思っています。ペガサスは祈りの心を感知したからやってきたと想像しました。
と、まあ、こんな風に私の心を貫いたので、「短歌ください」を本にするとき、「ペガサスの歌」を帯に入れたわけです。実際、この本を買った人の多くが、冬野きりんさんの歌に惹かれていたと聞いています。
ミサヲ へえ~。