水木しげるが描く「幽霊族」の正体は…
人類が出現する前から存在していたけれども、人類によって抑圧され、ついには最後の一人(鬼太郎)にまで追いつめられてしまう幽霊族。『鬼太郎誕生』ではその幽霊族の抑圧の歴史の最高潮が語られる。そしてそれが、この作品の結末を胸打つものにしている。
水木しげるは、2000年に書いた文章(「ビンタ 私の戦争体験」)で、「今でもよく戦死した戦友の夢をみる」し、さらには「最近は毎日のようにみる」と述べている。2000年に、である。水木しげるの創作の全体は戦争のトラウマを何度も語り直すことだったのではないかと思わせて余りある記述だ。もちろん、戦死した戦友は「幽霊」として現れる他はない。幽霊は、幽霊族はその人たちなのである。
『ゴジラ-1.0』がクールジャパンの希望のうちに戦争を忘却したのに対して、『鬼太郎誕生』と水木の涙は、「忘れた」はずの戦争が、目に見えないものが、虐げられて抹消された人びとが、今も私たちの隣に存在していることを私たちに教えている。そして、ゲゲ郎と水木のバディ関係はそのような虐げられた者たちの連帯として読まれるべきなのだ。
最後に、水木しげるが1985年版の『ゴジラ1985』に寄せた文章(「ゴジラと私」)を参照しよう。水木は、オリジナルの『ゴジラ』を観たとき、ゴジラが東京を破壊するのを見て「ひどく喜んだ」という。「「ゴジラ」が、貧乏人を救ってくれると、勘違いしたのだ。/とにかく、ぼくよりも幸福な人々が「ゴジラ」にいじめられるのが面白かった」と。
ここに表れているのは、ゴジラの見方というよりは、戦後日本への周縁からの眼差しである。『ゴジラ-1.0』がその存在を否認した眼差しだ。
【参照文献】
水木しげる「ビンタ 私の戦争体験」『文藝春秋』(2000年2月号)
水木しげる「ゴジラと私」『THE MAKING OF GODZILLA 1985』(小学館、1985年1月15日)
いずれも『水木しげる漫画大全集 103 水木しげる人生絵巻/わたしの日々他』(講談社、2018年)所収