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「先入観とそれにともなう分断」という問題を解いた『ズートピア』

 解けるように問題を設定し、きれいに解いてみせたのが『ズートピア』という作品なのだといえる。それは本作がアニメならではの抽象化の力をうまく発揮し、説得力をもって理想的な都市を描写することができたことの証でもある。

 しかし現実の都市はEPCOTやズートピアのように完全に人工的な場所ではない。空間こそ人工的に作られたものだが、さまざまな要素が絡み合い、歴史の中で因果が複雑に入り組んでおり、それはそこに暮らす人々が培ってきた「自然」ということができる。

 1991年に公開された『ジャングル・フィーバー』(スパイク・リー監督)は、ニューヨークを舞台にした黒人と白人の恋愛を描いた作品だ。こうして説明すると恋愛の障害として人種が取り扱われているのかと思う人もいるかもしれないが、ここで“障害”になるのは、単純に「人種」とくくれるようなシンプルなものではない。

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 強いていうなら障害となるのは、自分や自分を形成してきた歴史など、「自然」としかいいようのないものなのだ。それはまるで、小さな植物が置かれた環境でそれぞれに葉や蔓を伸ばして、独自のシルエットを形作る様に似ている。

映画『ジャングル・フィーバー』(1991年公開)

単一のレッテルではない広がりが浮かび上がるシーン

 有能な黒人建築家フリッパーは、妻のドリューと娘のミングと幸福に暮らしていた。ある日、職場に行くとアンジーというイタリア系の女性秘書が新たに雇われていた。アフリカ系の秘書を望んでいたフリッパーは、彼女の採用に抵抗するが、白人である上司に押し切られて彼女を受け入れることになる。イタリア系のアンジーは、父と兄2人の食事の世話などを一手に引き受けさせられていた。やがてフリッパーとアンジーは恋に落ちることになる。

 2人の恋愛は、周囲にさまざまな波紋を巻き起こす。例えば、フリッパーの浮気に傷ついたドリューを囲んで女友達が会話をするシーンが出てくる。

 ある友達が「黒人の男は薬漬けか刑務所かゲイしかいない」といえば、ドリューは「黒人にもいい男はいる」「白人と付き合うのはいやだ」と返す。一方、ドリューは、夫と外出すると白人女性が色目を使ってくる、という。白人女性は家で抑圧されているからだ、と彼女は主張する。一方で、別の友だちは「黒人の中でも色が濃い人はもてない」という話を始める。ドリューのように、色が浅い人(ドリューは父が白人であるということが別のシーンで語られる)のほうが、モテるのだ、と。

 このシーンでは、様々な種類の先入観と実感が渾然となって様々に飛び交っており、そこに「黒人女性」という単一のレッテルではない広がりが自然に浮かび上がってくる。またその中で、ドリューは父が白人だったからこそ、黒人であるというアイデンティティにこだわっていることも見えてくる。