『ズートピア』が切り捨ててしまったもの
『ジャングル・フィーバー』を紹介する時は、しばしば「黒人と白人のラブストーリー」と大雑把に語られるが、実際にはそこに複雑に重なったレイヤーと、肌の色だけでまとめられないグラデーションが存在する。『ズートピア』がシンプルに伝わる作品を目指し、人工的な理想都市を舞台にすることで切り捨ててしまったのは、こういう「都市の人間が産んだ自然」の部分なのだ(ここに関してはピクサーの『マイ・エレメント』が巧みに触れていた)。
辞書をひくとジャングル・フィーバーには「人種の異なる相手とのセックスに対する渇望を表すこっけいな、または軽蔑的な言葉」とある。別れの時、フリッパーは2人の関係は結局、これだったのだと、自分に言い聞かせるように告げる。そしてこう言う。
「終わりだ。これ以上は意味がない。君を愛していない。君も僕を愛していたかどうか」
「“愛はすべてに克つ”なんてディズニー映画だ。……ディズニーは嫌いだ」
25年間で世界はどう変わったのか?
『ズートピア』は志とエンターテインメントが融合した得難い映画だが、映画として無理なく成立させるために、映画の中にあえて持ち込まなかったものがあった。『ズートピア』を見ているだけでは、そこはなかなか見えてこない。そしてそこは『ジャングル・フィーバー』を見るとよくわかる。
『ズートピア』と『ジャングル・フィーバー』を併せて見ると、ようやく世界が見えてくる。人工と自然、理想と現実は、相対するものではなく補完し合うものなのだ。
フリッパーやアンジーが別れてから四半世紀が経った2016年に、『ズートピア』は公開された。『ジャングル・フィーバー』から『ズートピア』までの25年間で世界はどう変わったのか。中年になったフリッパーやアンジーは『ズートピア』を見ただろうか。あるいは大人になったフリッパーの娘ミングの目に『ズートピア』はどう映っただろうか。