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「クソミソです。ケチョンケチョンです」原節子が小津映画の「紀子役」に抱いていた“ある不満”とは〈小津安二郎生誕120年〉

『原節子の真実』より#1

2024/01/29
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黒澤、吉村、今井…3人の監督たちが語っていた原節子への不満

 黒澤明は『わが青春に悔なし』で、吉村公三郎は『安城家の舞踏会』で、今井正は『青い山脈』で、それぞれ原節子をヒロインに得て評判を取った。けれど、この3人の監督は、節子に主演してもらい成功を収めながら、彼女を褒めるのではなく、期待や不満を公に語っていた。

〈正直に云って、まだ原君の演技力は持て囃す程立派なものではないし、第一原君には、まだ俳優の性根みたいなものが出来て居ない。(中略)この人が適当なトレイニングに堪えるならば今の美しさの三倍位の美しさで輝くのは訳のない事だと〉(『映画ファン』昭和21年12月号/黒澤)

映画『わが青春に悔なし』(1946年公開)

〈出来上った原さんの演技はわり合いに評判もよく、無難であったと思いますが、真実のところ私には、まだまだ愛せない〉(『映画ファン』昭和23年2月号/吉村)

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〈与えられた役の人物に完全になりきって演技しているのでなく、その役の人物として生きているのではなく、スクリーンに現れて来るものはやはり原節子が役の人物らしく振舞っているに過ぎない――という感じを受けるのです〉(『近代映画』昭和23年8月号/今井)

黒澤へのライバル心

 この3人の中で特に小津が意識していたのは、黒澤明だった。後年、小津は黒澤を高く評価するが、自分がスランプにあった当時はことあるごとにこき下ろしていた。新東宝でフリーの美術助手をしていた永井健児の著作には、うっかり「黒澤のファンだ」と小津の前で洩らして執拗に絡まれる様子が詳しく書かれている。

 なぜ、それほど黒澤を意識したのか。自分がスランプに陥るなかで、一作ごとに評価を上げる若い才能に嫉妬と怖れを抱いたからか。あるいは作風に共感できず、それでいて世評が高いことに、いらだちを覚えたからなのか。

黒澤明 ©文藝春秋

 理由は諸々考えられるが、やはりここにも亡くなった山中貞雄が影を落としているように思われる。黒澤と山中は、ほぼ同年齢であった。山中は戦場に駆り出されて命を落としたが、なぜか黒澤は一度も戦地へ送られなかった。戦場で地獄を味わった小津は、兵役につかなかった人間を冷ややかに見下すところがあった。山中が生きていれば、間違いなく黒澤のライバルになっていたはずだ、という声が映画界のなかにはあった。

 小津は後に、はっきりと黒澤の名前を出して公にも批判するようになる。