脚本執筆から撮影編集までの全過程で、尋常ならざるこだわりと周到さを見せたことで知られる映画監督・小津安二郎。その生誕120年、歿後60年にあたる今年、小津の名作「東京物語」で笠智衆が演じた老人の配役名「平山周吉」で執筆された本が刊行されるとは、なんとも面白い。
著者の平山周吉氏は、名編集者として鳴らした後、文筆家としての出発にあたってこの名前を選んだ。この平山氏、「本当にそうなのだろうか」との疑問に導かれて、『昭和天皇「よもの海」の謎』を書いたと思えば、瞬く間に本書で5冊目となる名著を上梓し、その間、小林秀雄賞、司馬遼太郎賞等にも輝いたお人だ。
小津は、1937年7月に勃発した日中戦争にあって、同年9月に伍長として応召、2年弱の間大陸を転戦して生還した。当時、支那事変と呼ばれたこの戦争は、「100年に1人」の世界的監督となる小津の人間性や映画にいかなる影響を与えたのか。これが本書のテーマに他ならない。著者自身の見事な表現ではこれは「小津が成長するのには、『戦争』という巨大な協力者が介在していた」となる。
1903年生まれの小津は応召時既に33歳であり、「最長老の戦中派」との著者の見立ては正しい。日中戦争について小林秀雄は、「事変と呼び乍ら正銘の大戦争をやっている」、この「事変の新しさというものの正体を、先入主なく眺め」るべきだと書いた(『文學界』1940年1月号)。当時の陸軍は、ソ連への警戒から中国戦線には年齢の高い予備兵、再役者を動員し、最強の師団は対ソ戦用に温存した。弱兵が送られた中国戦線、その中に、輝かしい前途を約束されながら28歳で陣歿しなければならなかった若き映画監督・山中貞雄が含まれていた。
まず、著者の精緻な論究対象となったのは小津の代表作「麦秋」だった。キャメラを移動させないことで知られた小津が本作では禁を破り、大和の耳成山近く、風に揺らぐ麦穂の中を花嫁行列がゆくシーンとして移動撮影した。その意図は何だったのか。
著者は「移動するキャメラは山中の視線をも含んでいたのではないか」と喝破する。歩兵だった山中が体験した中国戦線を「麦の穂」で表象し、山中の傑作「河内山宗俊」で世に出た原節子を「麦の穂」を受け取る人として描くことで、死者の山中を悼む。画面中の全文物に全神経を配る小津が前提となるので、著者の解釈の確からしさが保証される構図ができる。
著者の謎解きを読む幸福を最も味わえる瞬間は、これまた山中の傑作「丹下左膳余話 百万両の壺」中の壺と、小津の「晩春」中の余りにも有名な壺の場面を結びつけた件(くだり)だ。著者はこれについても、「小津らしい手の込んだ山中追悼」だとする。ああ、山中と小津の映画全部見返したくなってきた。
ひらやましゅうきち/1952年、東京都生まれ。雑文家。慶應義塾大学文学部卒。『江藤淳は甦える』で小林秀雄賞、『満洲国グランドホテル』で司馬遼太郎賞受賞。他著に『昭和天皇「よもの海」の謎』等。Kindle版『江藤淳全集』責任編集者を務める。
かとうようこ/1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科(日本史学)教授。著書に『天皇と軍隊の近代史』など。