1日を終えて目を閉じる。だが頭の中にいろんな声が湧きあがってきてうまく眠れない。あのとき本当はこうすれば。こんなふうに言えたなら。自分のものであるはずの声は世間の求める像とぶつかって乱反射し、正解には辿り着けないまま葛藤ばかりが募っていく。
そんな夜に消耗した経験のある人はぜひ本書を手にとってみてほしい。すくなくとも自分がひとりではないことを――そうやって考え続けてはじめて出会える“わたしたち”がいることを教えてくれるから。
物語の主人公、歯科助手のアルバイトをしている森の脳内には3人の「わたし」がいる。甘えん坊で可愛いものが好きな「サイン」。毒舌家で自立志向の強い「コサイン」。自虐まじりの冗談が習い性で事なかれ主義の「タンジェント」。かまびすしく喋る彼女たちはいかにも対照的に映るが、そのじつ誰かが無茶をしそうになると、残りの2人がフォローする。三角形の内角と線分の関係を示す名前のとおり、彼女たちは互いに干渉し補填し合いながら絶妙なバランスを保っている。
愛されたい。自力で立ちたい。サインとコサイン、それぞれの行動原理は、社会が都合よく求めてきた規範を内面化したものでもある。だが実際はご存じのとおり、可愛くあっても強くあっても叩かれ疎まれる現実があるからこそ宥め役のタンジェントがいる。三者の掛け合いに助けられながらも日々すり減っていく森は、単調なノルマをこなしていくスマホのゲームをプレイしているときだけ彼女たちを忘れて安寧を得ている。ある日、そのゲームを通じて職場の「新人くん」と言葉を交わすように。そして初めて「わたし」という主語が用いられるところから、この小説は本当の意味で前に進み始めるのだ。
職場には「前時代のおじさん」たる院長に加え、2人の女性スタッフがいる。有能だが融通が利かず自分にも他人にも厳しい「直線」。世間から女らしさと呼ばれているものをこれでもかと着込んだ「曲線」。あたかもコサインとサインのような記号的なキャラクターだが、「直線」は途中で弾き出され、彼女の役回りをスライド式に押し付けられた「曲線」は以前のしたたかさを失う。社会の力学を象徴したようなこの場面は特にやるせなさが募るだろう。
「森ちゃんも、女の子だね」。退場する間際に直線が放った台詞は鋭く、痛い。タンジェントがなぜ関西弁のおばちゃんキャラなのか。なぜサインを「さっちゃん」と呼ぶのか。終盤で判明するその理由は、この物語が森だけの――この「わたし」だけの苦しみから生まれたものではないことを鮮やかに穿ってもいる。
「女」たち、あるいはそうした記号をめぐる磁場に引き裂かれてきた者たちが、それでも一縷の望みをと共に紡ぎだしてきた声。「わたし」の輪郭とはそういう営みに宿るものなのだろう。
いとうあかり/1986年生まれ、静岡県出身。2015年「変わらざる喜び」で太宰治賞を受賞。同作を改題した『名前も呼べない』でデビュー。他の著書に『きみはだれかのどうでもいい人』『ピンク色なんかこわくない』など。
くらもとさおり/1979年生まれ。書評家。小説トリッパー「クロスレビュー」、週刊新潮「ベストセラー街道をゆく!」が連載中。