映画界が傾くなか、ただひとり気を吐いていたのは黒澤明だった。「用心棒」(昭和36年)、『椿三十郎』 (昭和37年)とヒット作を打ち出し「世界のクロサワ」の名をほしいままにしていた。彼との縁が切れなければ、節子の女優人生はもう少し違ったものになっていたのではないだろうか。
誰にも気づかれぬように
『忠臣蔵』に出演して以降、節子は特に引退を表明せず、東宝から持ち込まれる企画をことごとく断るようになった。東宝には「気に入った作品があれば出る」と、当初はお茶を濁していたようだが、前々から親しかった人には、「40歳で引退したい」「引退する時は誰にも気づかれぬように消えていきたい」と話していたという。
その言葉通り、彼女は何も語らず、何も発表せず、映画界を去ろうとしていた。静かに、そして、誰にも気づかれぬように。
最後まで自分が満足できる出演作に恵まれなかった。彼女自身がそうでありたいと願った意志強く、運命を切り拓いていく力強いヒロインは日本映画界のなかに登場しない。日本社会が、そのような女性を求めておらず、また実社会にも存在しなかったからでもあるだろう。
原節子の時代も終わった。人々は節子への関心を失った。
復興から経済成長へ。世の中は東京五輪の開催に向けて動こうとしていた。浮つく世の中は節子がいなくなったことにも、当初、気づかなかった。
60回目の誕生日を迎えた当日の死
節子が出演を断り銀幕から姿を消して1年が経つ頃、ある訃報が流れた。
小津安二郎が亡くなったのだ。昭和38年(1963)12月12日、60回目の誕生日を迎えた当日の死だった。『秋刀魚の味』を発表してから、まだ1年しか経っていなかった。
小津の通夜は、北鎌倉の自宅で営まれた。
夜が更け弔問客も途絶えて、居残った映画人たちは酒を飲み、打ち騒いでいた。そのとき、遅れて来訪者があった。節子だった。