2023年12月12日、小津安二郎監督が生誕120年・没後60年を迎えた。今も国内外から支持される小津作品を語るうえで欠かせないのが、『晩春』『麦秋』『東京物語』の“紀子三部作”でヒロインを演じた女優・原節子の存在だ。
ここでは、ノンフィクション作家の石井妙子氏が綿密な取材をもとに書き上げた評伝『原節子の真実』(新潮社)より一部を抜粋する。小津と原の出会い、『晩春』がつくられた背景、原がこの作品に“ある不満”を抱いた理由とは?(全2回の1回目/続きを読む)
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「小津は古い」と言われるなかでつくられた『晩春』
映画界では、すでに次世代の黒澤明、木下惠介、吉村公三郎、今井正や山本薩夫らが台頭し、つぎつぎと民主主義的な映画を発表して評判を取っていた。
「小津は古い」「終わった」と言われるなかで、あえて広津和郎の小説『父と娘』を原作に選び、娘の結婚をめぐる父娘の心の動きという古風なテーマに挑んだ、それが 『晩春』だった。
野田高梧と茅ヶ崎海岸近くの旅館に籠って脚本づくりに取り組んだ時、すでに主演は原節子と決めていた。彼自身の好みに合っていたのはもちろんのこと、そこには、もうひとつ理由があったのではないか。山中貞雄への供養である。山中が発見し、最も愛した女優、それが節子だった。
原節子がいなければ生まれなかった“紀子”
デビューしたばかりでまったく無名だった原節子を、山中は会社側を必死に説得して自作『河内山宗俊』のヒロインに抜擢した。その『河内山宗俊』のセットを見学に来たドイツ人のファンク監督の目に止まり、日独合作映画『新しき土』に抜擢され一躍、国民的女優となった。一方、山中は『河内山宗俊』が公開された翌年の昭和12年に召集令状を受け取り大陸に渡った。
中国大陸の戦場で小津は山中と出会い、短い立ち話をして別れたという。そして、その8カ月後、山中は戦病死する。小津はこの後輩を人間としても一監督としても、深く弟のように愛していた。「悔やんでも悔やみきれない」、「あまりにも惜しい」と日記に綴っている。復員後はまっさきに山中の墓参をしているほどだ。その山中が生きていたら最もやりたかったこと。それは原節子を使って映画を撮ることだったろう。山中への鎮魂の気持ちからも、節子を使いたかったのではないだろうか。
小津と野田は酒を飲みながら役者の性格や雰囲気を考え、登場人物を創造した。節子に対しても想像をめぐらし、それをヒロインの「紀子」へと反映させた。紀子像は節子が演じることを前提に創造されたキャラクターなのである。
紀子は鎌倉に暮らす、妻を早くに亡くした大学教授の娘。戦中、軍需工場で働いて身体を壊したが、最近ようやく健康を取り戻した。それもあって、婚期を逃しつつある。だが、本人は、亡き母に代わって父の世話を焼く今の生活に満足している。自分の結婚には消極的で、一生、父とふたりで過ごせればいいと考えている。そんな紀子の未来を思って、父は、「自分も再婚するつもりだから」と嘘をつき、娘を見合い結婚させる。これが『晩春』のストーリーである。
紀子には明らかに戦争の影があり、戦前戦中を引きずっている。
結婚の対象となる同世代の男たちを日の丸を振って見送り、残された女たちの戦後。それが紀子なのだ。そして、そこには現実の原節子の姿が重なる。