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「不倫は不倫でも“大不倫”だったわけですよね」田原総一朗が下重暁子に語った“京都日帰り旅行”

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ジャーナリストの田原総一朗さん、作家の下重暁子さんによる対談「恋のない人生なんて!」を一部転載します(文藝春秋2023年7月号より)。

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就職先はジャンケンで

 田原 僕は人生で2回結婚をしたのだけど、下重さんは2番目の女房と仲が良かったんだよね。

 下重 2004年に亡くなった田原節子さんね。彼女とは大学が同じ早稲田でしたが、独身の頃は旧姓で「古賀ちゃん」、結婚して名字が変わってからは「せっちゃん」と呼んでいました。せっちゃんは大学時代から有名人で、童謡歌手の古賀さと子さんの実姉として知られていて、自身も早稲田大学放送研究会のスターでした。

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 田原 下重さんも放送研究会に入っていたの?

 下重 いいえ。私はもともとアナウンサーになる気はなかったですから。物書きになりたくて、後に芥川賞作家になった同級生の黒田夏子さんと同人雑誌を出したりしていました。せっちゃんとは学部も違うし、名前を知っているくらいで話したことはなかったです。

 田原 下重さんは美人だし、しっかりしているから、当時の大学生男子からすると近寄りがたい存在だったんじゃないかな。

田原総一朗氏 ©文藝春秋

 下重 私は大学生の頃は人付き合いが悪くて、ずっと黙っているから、おっかなそうに見えたかもしれません。でも、黒田さんが言うにはね、同級生の男の子のなかには私を憎からず思う人もいたんだって。「あなたみたいに人から愛されることに鈍感で、自分から愛することに不器用な女はいない」と。高校時代からのボーイフレンドはいたけど、大学ではあまり男の子に縁のない学生生活でした。黒ずくめの格好で小悪魔と呼ばれてたらしい。

 田原 当時は今より男性優位の社会だったから、男性にすり寄っていく女性が好まれていた。そういう意味では下重さんみたいな女性は怖がられていたと思う(笑)。

 下重 私の話は後でするとして、せっちゃんとの出会いに話を戻しましょう。

 私はどうしても「言葉」を使う仕事がしたかった。ところが大学4年生になって就職活動を始めても、当時は大手出版社も新聞社も、女性を採用してくれる会社は、まずなかったのよ。やむなくテレビ局のアナウンサーを受けたのだけど、選考が進んで人数が絞られると、大体どの局も同じ顔触れになる。せっちゃんはどの社でも残っていて、次第に話をする仲になったのです。

 田原 最終的に節子は日本テレビに、下重さんはNHKに就職したんですよね。

 下重 NHKと日テレの最終面接が同じ日だったの。2人で相談した結果、合格の確率を上げるために、受ける局を事前に割り振ろうという話になった。ジャンケンをして、どっちが勝ったのかは覚えていませんが、せっちゃんが日テレ、私がNHKを受けることになり、そのまま入社してしまいました。

 田原 多分、ジャンケンは節子が勝ったんじゃないかな。当時は日テレの給料がNHKの倍ぐらいあった。

 下重 私もそう思う。しかもNHKは入社後すぐ地方に転勤させられますから。ともかく、彼女とは社会人としての一歩を踏み出した時からの縁があって、人生の節目で不思議と出会う人だったのよね。

 その後、せっちゃんは入社2年目で結婚。当時としては珍しく、寿退社はせずに会社に残る道を選びました。それで……(少し言いよどんで)今日は何でも話してしまって大丈夫よね?

 田原 はい、どうぞ。