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【追悼・中島貞夫監督】「社会から弾かれた者のほうに関心がいく」「美しい死なんてありえねえ」東映ヤクザ映画の大物、最後のインタビュー

仁義なきヤクザ映画史 特別編

2023/06/18
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映画史家の伊藤彰彦氏による「ヤクザ映画最後の巨匠 中島貞夫監督インタビュー150分」を一部転載します(月刊「文藝春秋」2023年3月号より)。

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巨匠が語る「ヤクザ映画とは何か」

 1月10日、京都御所に行った。参観のためではない。御所を睥睨(へいげい)するマンションの最上階に、東映ヤクザ映画を撮った最後の大物監督、中島貞夫が住んでいるからだ。

 中島はヤクザ映画のみならず、あらゆるジャンルの映画を50本以上撮った撮影所世代の監督だ。昨年は、『日本暗殺秘録』(1969年)が安倍元首相銃撃事件とともにふたたび脚光を浴び、今年に入ってからは毎日映画コンクールの特別賞を受賞し、彼のドキュメンタリー映画『遊撃/映画監督 中島貞夫』(松原龍弥監督)が現在公開中だ。この連載も残すところあと二回、中島にどうしても話を聞いておきたかったのは、その膨大なフィルモグラフィーの中で燦然と輝くのが、『893(ハチキューサン)愚連隊』(66年)、『現代やくざ 血桜三兄弟』(71年)、『鉄砲玉の美学』(73年)、『脱獄・広島殺人囚』(74年)、『実録外伝 大阪電撃作戦』(76年)、『総長の首』(79年)、『極道の妻(おんな)たち 危険な賭け』(96年)といった多種多様なヤクザ映画だからだ。

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『日本暗殺秘録』(1969) 前列中央に中島監督と千葉真一 中島氏提供

 中島は「義理と人情を至上の価値とする任侠映画とは肌が合わない」と公言し、戦後派的アナーキーな感性を持ちながら、「アンチ・任侠映画」としての「チンピラ映画」を撮り続けた。さらに、80年代以降、東映ヤクザ映画がピークを過ぎるなかで、東映のエース監督としてヤクザ映画を最後まで支え続けた。このように東映ヤクザ映画を醒めた目で見ながら、このジャンルと最も激しく格闘し、その終焉を見届けた男——中島貞夫に「ヤクザ映画とは何か」を聞いた。

 ——ヤクザはあるときは権力末端の暴力装置として民衆を弾圧し、あるときは民衆のために闘うという両義的な存在でした。中島監督はヤクザという存在をどのようにお考えですか?

 中島 社会からほっぽり出された奴がヤクザだと思っています。放逐され方には色々あって、自分から暴れたのではなく、暴れるような状況に追いこまれて、怒髪天を衝く場合もあるわけです。僕が映画で描きたかったのは後者でした。助監督時代には、そういうはみ出してゆくヤクザを主人公に「こいつは何で外れてしもうたんや」と問いかけるようにシナリオを何本か書きました。

 ——64年に『くノ一忍法』でデビューしたあとも、山の民をテーマに据えた『山窩』や釜ヶ崎を舞台にした『通天閣の兄やん』の脚本を書きます(「山窩」は85年に『瀬降り物語』として実現)。また、79年の『真田幸村の謀略』では幸村(松方弘樹)に「草の者(被差別民)になる」と宣言させます。山窩、棄民、被差別民、在日朝鮮人など虐げられた者やマイノリティに対するシンパシーはいつごろ芽生え、どのように培われたものなのでしょうか。

 中島 分からないなあ。この資本主義社会で生き、本を読み、物を考えるうちに、自然と社会から弾かれた者のほうに関心がいくんですよ。