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撮影所にヤクザがいた理由

 ——東大卒業後、東映京都撮影所に入ると元ヤクザのスタッフがたくさんいた、と書いておられます。京都の映画界とヤクザ社会の関わりについて教えてください。

 中島 僕の師匠であるマキノ雅弘(「日本映画の父」といわれる牧野省三の息子)の後ろ盾が「千本組」でした。千本組はいわゆる「かたぎヤクザ」。博奕を一切禁じ、材木の手配と国鉄(現・JR)二条駅の人夫の請け負いをなりわいとして、日活大将軍撮影所の大道具用の材木の手配、ロケ用のトラックの貸与、「露払い」(ロケ先の地回りを追い払う用心棒役)の手配を一手に引き受けていました。その三代目の笹井末三郎はヤクザであり、アナキストでもありました。

インタビュー中の中島監督(2023年1月) ©文藝春秋

 東映は1949年にできた一番新しい映画会社で、東急から派遣された経理のプロである大川博社長は、ヤクザとの付き合いを根絶しようと、徹底的に領収書のない経費を削減しました。結果、東映では領収書がもらえないロケ先でのヤクザ対策費を使えず、「露払い」もいなくなってしまう。そんなある日、片岡千恵蔵が和歌山のロケ場所で地回りのヤクザに脅迫されて震え上がるという事件が起こります。これ以降、いかに冗費をなくし経営の近代化をめざす東映といえども、円滑なロケーションを行なうためには、ヤクザの力を借りねばならないと考え直したんですね。そこで戦前からの京都の博徒、中島源之助に露払い要員の紹介を頼んで、伊藤さんのこの連載にも出てきた松本元蔵さんや並河正夫さんが撮影所にやってくる。こんなふうに京都では、ヤクザが撮影所に入りこんだというより、撮影所のほうがヤクザを引っ張りこみ、「適材適所」で活用したと言った方が正確だと思いますね。

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 63年に東映任侠映画路線が始まり、俊藤浩滋さんが東映京都で大きな力を持ち始めると、ヤクザの儀礼や賭博を指導する本職が出入りするようになります。

 任侠映画の時代には、北島三郎や村田英雄のような歌手出身や浪花節語りも俳優として撮影所にやってきました。村田さんとはよく夕飯を一緒に食べながら打合せをしましたが、スターだから金のかかった食べものが好きかと思いきや、いつも生ニンニクを3つ、4つコリコリと齧りながらうまそうに日本酒を飲むんですよ。それが晩飯。この人の生活感覚は労働者そのものだな、それを恥ずかしがるということがまったくないんだな、と感心したものです。