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「これから大変なことになっちゃうんだね」

 下重 せっちゃんが容姿の衰えを理由に配転され、裁判を起こして会社と対立したときも、田原さんは応援したのよね。で、一線を越えたきっかけは何だったの?

 田原 喫茶店で会う関係が何年も続いたある時、節子から「仕事も会社もなにもかも捨てていい」と言われたことがあった。彼女をそこまで追い詰めてしまったのかと、僕もようやく気付いてね。今からでも距離を置いたほうがいいのか、とことん地の果てまで行くべきなのか。それを確かめようと、彼女を京都への日帰り旅行に誘いました。2人きりで一日中歩き回れば、何かしらの結論が出るだろうと。

 嵐山と嵯峨野を散策し、最後は藤原定家の墓地に行ったのだけど、お墓の手前に川が流れていて、橋をわたらなければならなかった。節子がちょっと渡りにくそうにしていたので、僕のほうから手を差し出したんです。純粋に親切心からの行動だったのだけど、彼女はさっと手を引っ込めた。手をつないでしまったら、その先にどんどん発展してしまいそうだからと。

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京都の嵐山の晩秋の風景 写真提供:アフロ

 下重 せっちゃんらしいね。そこは私と通じるところがあると思う(笑)。

 田原 だけどね、結果的に2人の心は深く結びついてしまったわけです。その日は何事もなく東京に帰りましたが、2カ月後には東海道線沿いの旅館を予約し、そこでとうとう一線を越えました。帰りの新幹線のなかで、「いよいよ、これから大変なことになっちゃうんだね」と、節子がつぶやいた。その時、僕は33歳、彼女は31歳になっていたかな。

 下重 当時の田原さんには奥さんと娘さんが2人、せっちゃんには夫と娘さんが1人いましたから、不倫は不倫でも“大不倫”だったわけですよね。

 いつの間にか、お二人の関係はテレビ業界の中では知らない人はいないくらい、公然の仲になっていました。私はそういう噂には疎いし、せっちゃん本人から詳しい話を聞くことはなかったけれど、彼女が恋をしているのは傍から見れば分かりましたよ。

 田原 不倫を隠すつもりはありませんでした。僕はジャーナリストを志した時、人のプライバシーを暴くのだから、自分のプライバシーもゼロだと決めていた。週刊誌が嗅ぎつけて取材に来たこともあったけど、その記者と学生運動の話ですごく盛り上がってね。すると、彼は「田原さんを傷つけるのは不本意なので、書くのはやめます」と。結局、記事になりませんでした。

 ただ、節子とは一線を越えた時から、お互いの家庭だけは絶対に守り抜こうと約束していました。僕自身も古い人間なので、女房と子どもを食わせるのが男の一番の役割だと思っていた。一度結婚した以上は、なんとしても家庭を守り通したかったのです。女房には節子との関係がバレていましたが、態度に出ることはあっても、正面から責められることは一切ありませんでした。今振り返っても、申し訳ないことをしたと思う。

田原総一朗さんと下重暁子さんの対談「恋のない人生なんて!」全文は、月刊「文藝春秋」2023年7月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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「恋のない人生なんて!」