ひとしきり泣くと、踵を返して立ち去った
小津組のキャメラマンだった厚田雄春は、こう回想している。
〈誰も涙を流してしんみりしてた奴なんかいない。ところが原節子さんが来られたというんで、玄関に迎えに出て、入ってこられる原さんの顔みたとたんに急に涙があふれてきて、自然と抱き合って泣き出してしまった。しゃくりあげて、こらえきれなくなったんです〉(『小津安二郎物語』平成元年)
節子は玄関で皆に囲まれてひとしきり泣くと、踵を返して立ち去った。その場にいた記者が後を追いかけ、彼女の短いコメントを取った。
小津の死から5年後、昭和43年(1968)には小津映画を支えてきた脚本家の野田高梧が亡くなった。節子はやはり弔問客が途絶えた深夜、ひっそりと野田家を訪れている。
小津の通夜に姿を見せてから3ヶ月後の昭和39年(1964)3月、節子は東京の狛江の自宅から荷物をすべて運び出すと、鎌倉の義兄夫婦の家に完全に居を移した。狛江の家は、この数年後に家屋だけ取り壊し、そのまま更地として持ち続けた。
「やっと映画に出なくてもすむようになった」
鎌倉に越して後、彼女は友人たちに電話を入れると弾む声でこういったという。
「何も言わずに引っ越ししてごめんなさいね。お金が貯まったから、もう、やっと映画に出なくてもすむようになったのよ」
「贅沢をしなければ、一生食べていけると思う」
東京オリンピックと新幹線の開通に沸き立ち、節子の動向に関心を払う人は少なかった。テレビをつければ古関裕而が作曲した「東京オリンピック・マーチ」が流れてきた。戦争中は軍国歌謡のヒットメーカーであった、あの古関である。
狛江の家は敷地が800坪もあったが、義兄の家は鎌倉郊外の古刹の一角にある借家だった。300坪ほどの敷地内に母屋があり、義兄夫婦と息子の久昭が暮らしていた。節子の部屋は、もともと物置小屋だったところを改装した庭先の小さな離れだった。