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連載明治事件史

体中を切られて死んだ夫、不起訴になった「犯人」…事件に巻き込まれたカナダ人妻が語っていた“疑問”と“世間の空気”

「ラージ殺人事件」#2

2024/01/14

genre : 歴史, 社会

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日英同盟をきっかけに再捜査が行われた

 しかし、日英同盟をきっかけに事件の再捜査が行われたことは疑いようがない。その結果は、締結から約10カ月後の1902年12月5日付各紙に一斉に載った。どの新聞の記事も回りくどいが、比較的簡潔な東京朝日(東朝)の記事は――。

 ラージ殺し犯人の発見

 

 さる明治23年4月4日の夜中、鳥居坂の東洋英和学校の英人ラージを殺害し、夫人にも重軽傷を与えて立ち去った2人の凶漢があり、当時世間を騒がせたが、犯人はついに出ないまま今日に及び、十数年が空しく経過した。しかし、当初から捜査の主任として苦心した武東警部及び、もっぱら探偵に尽力した兼子刑事らは図らずもその犯人を発見した。

 

 その者はさる25(1890)年、新宿署が取り押さえた強盗犯、(東京)府下北多摩郡砂川村(現立川市)64番地、馬場恒八(57)、共犯の熊本市安巳橋通67番地、士族、小笠原重季(48)の両人で、恒八は有期徒刑(懲役)14年、重季は同13年に処された。

 

 2人が押し入った現場の状況がひどくラージ方の犯罪と似ているところがあるとして取り調べた結果、嫌疑が認められたが、恒八は北海道網走分監(刑務所)に、重季は東京集治監(同)に服役中、恒八は29(1896)年11月刑死し、今は重季1人となった。

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 捜査にあたっていたのは、さまざまな難事件を手がけ「鬼武東」と呼ばれた「武東(晴一)警部」と同様に知られた「兼子(道弘)刑事」。それでも「犯人」2人のうち1人は死んでいたという事実は12年の時の流れを示していた。記事は続く。

 10月22日に初めて重季を尋問する一方、ラージ方に遺留された洋服、タバコ入れについて、恒八の妻と、恒八と親交が深かった男を召喚して見せたところ、いずれも重季が所持していた品だと証言した。タバコ入れを買った四谷区(現新宿区)内の袋物屋を探り出し、当時の奉公人の所在もつかんだ。それらの証拠でさらに重季を取り調べたが、容易に自供しなかった。

 

 それでも、証拠と証人がそろっているので、さすがの凶賊も隠しきれず、「自分は恒八と共謀してラージを殺害。夫人を斬り、何も取らずに逃走した」旨を逐一申し立て、タバコ入れなども自分の所持品と自供した。供述は当時の検証調書に符合。虚偽の自白とは全く違うようなので、先月26日、検事局に護送した。十数年来、五大事件の1つとしてその筋を悩ませた殺人事件も、ここに犯人が現れたのは天命というべきか。