事件は解明されたが…
12月6日付各紙の記事はいずれもそのことに触れているが、報知(郵便報知から改題)の記事を中見出しともども見よう。
本件不起訴に決す
さて同人(重季)の罪悪は自白によって確実だが、ラージ氏殺害、専念寺住職ら殺し当時から起算すれば、本年6月13日で満10年になり、重罪犯公訴の時効を経過していることから、2件の事件は不起訴と決定した。
当時の刑法は殺人などの重罪で時効10年と定められていた。ただ、他紙も同じように書いているが、なぜ6月13日なのかは説明がなく、分からない。同日付時事新報と翌7日付萬朝報には恒八と重季の似顔絵が載っている。写真を基に描かせたようだが、どうやって入手したのか――。
当時の新聞の事件記事は犯罪読み物としての「面白さ」が求められていた。國民新聞が6日付から「ラージ殺の探偵」を連載し始めたほか、萬朝報、都新聞(現東京新聞)、日出國(やまと)新聞が競って連載読み物を載せている。
重季は獄中の態度が良好のうえ、減刑の恩典も受けて同年12月17日午前9時、小菅集治監を満期出獄した。
「茶と紺の大名縞(江戸時代に流行した縞模様)の綿入れに白と茶の棒縞のシャツ、白木綿の三尺=長さが3尺(約90センチ)の帯=を締め、麻裏草履に紺足袋。冊子20冊を携え、一見獰猛な顔つき。所持金は工銭(懲役労働の対価)79円85銭7厘(約33万円)と別に1円50銭(同約6000円)があり、熊本市の叔父方で監視を受けるが、一時、神田表神保町の出獄人救済所、原胤昭氏が引き取ることとなり、同氏は早朝から同監獄に出頭。同人の引き渡しを受けた」。12月18日付東日はこう伝えた。
容貌について同じ日付の報知は「殺人犯とはいえ、至って柔和の相」としていて、どちらが正確か――。原胤昭は有名な篤志家で、前年1901(明治34)年5月8日付読売の記事によれば、1897(明治30)年の救済所設立以来、引き受けた出獄者は453人。それ以前から手がけた者を合わせれば800人余りに上るという。
寄宿舎で職業訓練などをし、就職あっせんもするなど、刑余者の更生を進めていた。重季はその下でどんな生活を送り、その後どうなったのか、伝える資料はない。