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 事件後のイライザはいったんカナダに帰国した後、翌年再び来日。東洋英和女学校で教鞭をとり、晩年カナダに帰って農場経営に従事し、1933年まで生きた。

排外主義の影響が広がっていた?

 事件発生時、外交のプロたちが国際関係や条約改正への影響を危惧して動いたことは確かだが、警察や新聞の間では、それ以上に、一般に広まっていた欧化主義の反動としての排外主義の影響が広がっていたのではないか。それが事件捜査の甘さにつながったと考えるのはおかしくはないだろう。

 日英同盟が締結されると、一転「世界の一流国家に仲間入り」したと思い込み、国際関係を重視する方向に雲行きが変わった。そのために事件の再捜査に力を入れて実行犯解明にたどり着いたが、そこには時効の壁が――。そう考えると、いかにも場当たり的な印象を受ける。

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 日本はこの後、日露戦争に勝利して一段と自信をつけ、軍国主義・膨張主義に傾いていく。それでも、国際感覚を欠いたまま、その場その場で場当たり的に対応していく傾向は常につきまとった。そしてそれは、事件から130年以上たったいまのこの国でも見られるように私には思える。

【参考文献】
▽『東洋英和女学校五十年史』(東洋英和女学校、1934年)
▽『東洋英和女学院百年史』(東洋英和女学校、1984年)
▽『警視庁史第1(明治編)』(警視庁史編さん委員会、1959年)
▽小泉輝三朗『明治犯罪史正談』(大学書房、1956年)
▽隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中公文庫、1974年)
▽生方敏郎『明治大正見聞史』(春秋社、1926年)
▽加太こうじ『明治・大正犯罪史』(現代史出版会、1980年)