2人の犯行だと判明した経緯については東日が詳しい。専念寺の2人強盗殺人の罪も問われないまま服役していたということが分かる。『警視庁史第1(明治編)』は「2件(ラージ殺しと専念寺殺人)も両名の犯行に相違なしと推定して、厳重に追及したが、あくまでこれを否認したまま獄に下った」と書いているが……。
当時、事件は刑事の間でも見立てが異なり、1つは怨恨からくる謀殺、もう1つは全くの強盗の犯行との見方で、捜査方針を定めていた。ところが、その後明治25(1892)年1月20日午前1時ごろ、府下豊多摩郡東大久保村(現新宿区)の専念寺に凶賊が押し入り、住職(69)と雇いの女(63)を惨殺して逃げ去った。
ほかに居住者がいないため犯人が何人かなどは判明しなかったが、捜査の結果、2人組で強盗目的だったことが明らかになり、現場の模様がラージ氏夫妻殺傷の現場と符合する点が少なくないことから、2つの事件は同一犯で、ラージ氏殺害も強盗目的とみて捜査を続けていた。
ただ、当時ラージ事件に関係した警視庁の警部、巡査はおおよそ転勤、退職、死亡し、現職はわずかに武東警部と兼子刑事、田中勘次郎刑事の3人だけだった。しかし、なお一層検挙の道を講ずべき旨、大浦総監から担当課長に命令があり、課長はそれまでの捜査を精細に調べて、武東警部、兼子巡査と協議を尽くした。
兼子巡査は十数年、本件捜査の前線にあり、犯人を検挙できないのを常に遺憾としていたので、大いに力を得て東奔西走。苦心の結果、2人こそラージ殺しの犯人と割り出した。2人は新宿署管内数十カ所で強盗を続けるうち、明治25年9月、馬場恒八は押し入った家の者に取り押さえられ、調べに小笠原重季が共犯だと自供。重季もすぐ逮捕された。(東日)
日英同盟への配慮から警視庁が力を入れたのか
大浦警視総監は薩摩藩出身でのちに内務大臣などを歴任する大浦兼武。彼は二度警視総監を務めており、一度目は1898年11月から1900年10月で、二度目が1901年6月から1903年9月。兼子巡査が十数年、ラージ殺しの捜査を担当しているというから、二度目の可能性が強い。日英同盟の交渉は締結の前年1901年から始まっていた。とすると、やはり日英同盟への配慮から警視庁が再捜査に力を入れたことは間違いなさそうだ。
結局、タバコ入れを重季の物と突き止めたことが事件解明の決め手となった。これで一件落着と思われたが、事件は思わぬ方向へ進む。