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「ひじょうに心のやさしい、フェミニストでした」

と笠置は自伝に記している。

私は笠置シヅ子の一人娘の亀井ヱイ子さん(1947~)から父・吉本頴右の写真を見せてもらったが、たしかに往年の映画俳優を思わせる実にハンサムな青年だった。SGD(松竹楽劇団)時代にほのかな恋心を抱いた益田貞信といい、この吉本頴右といい、笠置は知的でハンサムな男性が好みのタイプだったようだ。

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吉本頴右は早稲田の学生で、当時20歳だった。笠置は自分を慕う9歳年下のこの青年に好感を持つ。やがて穎右が笠置の家へ遊びに来たり(当時は家に養父・音吉がいたが)、笠置が市ヶ谷にある吉本家の別宅へ遊びに行くという二人の付き合いが始まった。しばらくの間は笠置が頴右を弟扱いし、頴右も笠置に甘えるという姉弟的な仲だったが、二人が恋に落ちるのに、さほど時間はかからなかったようだ。もともと二人は互いに一目惚れだったのだ。

太平洋戦争激化の中、笠置と頴右は結ばれるが……

1944年7月、サイパン島が米軍攻撃で陥落してしまうと、国中で軍靴の足音が響き、時代は若者の未来や希望を奪っていった。この頃、頴右は結核に罹(かか)る。若者の命は自分たちのものではなく、国家のものだった。そして44年暮れ、二人は結ばれる。

「サイパンが落ちて、今にも本上の上空に大編隊が飛來(飛来)するとの恐怖の中で、私たちの情炎(編集部註:情念の間違いと思われる)は火と燃えさかりました」(『歌う自画像』)

頴右はこの年、喀血し、学徒動員も免除になっている。不遇な歌手と不治の病を背負った青年の恋、まるで神が引き合わせたかのような、運命的ともいえる恋だった。二人の逢瀬は切なく、そうであればあるほど恋は燃え上がっただろう。やがて二人は結婚を誓う。

この、44年暮れから46年までの二人の“愛情生活”(『歌う自画像』)は、日本人にとって最も不幸なときだったが、皮肉なことに笠置にとっては「わが生涯最良の日々」だった。歌手としては地獄の時代ではあったが、女性として生涯でたった一度の恋に落ちたのだ。笠置と頴右にとって、生きるためには必要な、必然的で運命的な恋愛だった。