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吉本興業を一代で築き上げた吉本せいは息子の交際に反対

経営手腕は吉兵衛よりせいのほうが上手(うわて)だったようで、彼女は今日まで“伝説の女興行師”と語り継がれる。ちなみに1958年、山崎豊子が吉本せいをモデルに小説『花のれん』を書き、第39回直木賞を受賞している。翌年には東宝で映画化され、主演の淡島千影(吉兵衛役は森繁久弥)は大阪女のたくましさとせつなさを好演した。

せい夫婦は2男6女をもうけたが、長男以下5人の子どもが次々と夭逝した上に、次男(頴右)が生まれた翌年の1924年、吉兵衛が37歳の男盛りに急逝してしまう。せいは34歳の若さで未亡人になったのである。やがて昭和に入り、関西発祥の松竹と東宝が二大勢力となって興行が発展する中にせいは堂々と割って入り、業績を伸ばしていく。華やかな舞台の裏では熾烈(しれつ)な競争が繰り広げられるのだが、せいは女の細腕で大阪女の“ど根性”を発揮した。そんな彼女が一人息子の頴右をいかに溺愛し、自分の後継者として期待していたかは理解できないことではない。

1943年頃に出会った頴右と笠置シヅ子が、翌年には結婚を約束するまでの仲になったことはせいの耳にも入る。このとき、せいが二人の結婚に猛反対したという話はおそらく事実だろう。頴右はまだ学生で、おまけに笠置は9歳も年上である。OSSKやSGDで評判の歌姫だったとはいえ、笠置シヅ子もまた、かつてせいが日々面倒を見、育て、ときには札束で引き抜き合戦を繰り広げてきた同じ芸人であり、やり手興行師から見れば“商品”なのだ。

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せいは息子を溺愛していたが、笠置が妊娠してからは軟化

また息子を溺愛する母親としてみれば嫁が誰であろうと、息子の勝手な恋愛結婚をすんなり許すとは思えない。このことは当時もマスコミの格好のネタになったようで、後々まで「ブギの女王と吉本興業御曹司の許されぬ結婚」と喧伝された。だが実際は、せいがかたくなに反対していたわけではなく、せいの心も徐々に軟化し、とくに笠置が頴右の子を身ごもってからは二人の仲は周囲も公認だった。