頴右は結核が悪化し、母・吉本せいの元へ帰ってゆく
45年5月25日、東京大空襲。笠置は京都・花月で公演中だったので無事だったが、三軒茶屋の住まいを焼け出され、無一物となった。音吉は郷里、香川の引田に戻る。市ヶ谷の吉本邸も焼失。穎右の叔父の吉本興業常務で東京支社長・林弘高の世話で、笠置と頴右は林家の隣家のフランス人宅に年末まで仮住まいする。二人が同じ屋根の下に暮らしたのは、後にも先にもこの年の数カ月間だけだった。ここで8月15日を迎え、長い戦争が終わった。
47年1月、笠置は世田谷・松陰神社前に一軒家を借りて引っ越し、マネジャーの山内義富一家と住む。一方、恋人である吉本頴右の肺結核は次第に悪化していき、彼は西宮市の自宅へ戻って療養に専念することになる。1月14日、笠置は東京駅で彼を見送ったが、これが頴右との今生の別れとなった。
妊娠5カ月の笠置は服部良一を始め周囲をハラハラさせながら、1月29日、笠置主演の日劇「ジャズカルメン」初日の幕が開いた。当時の雑誌には、笠置の「ハラボテのカルメン」という記事もあって驚く。実はこの「ジャズカルメン」で、笠置は引退するつもりだった。結婚を誓った頴右との約束だったのだ。
妊娠5カ月で舞台に立った笠置、頴右は出産前に急逝する
やがて出産が近づき、当時の芝区葦手町にあった桜井病院に入院していた笠置の元へ、5月19日午前10時20分、吉本頴右が急逝したとの知らせが入る。当時は奔馬(ほんば)性結核と呼ばれていた“不治の病”が、24歳の命を奪った。彼の死は、二人の女性を悲しみと失意のどん底に突き落とした。来月早々に出産を控えた身重の婚約者と、最愛の一人息子に将来を託していた母、大阪の吉本興業社長・吉本せい(1889~1950)である。
兵庫県明石生まれの林せいが、大阪上町の荒物問屋・吉本吉兵衛(本名・吉次郎、通称・泰三)に嫁いだのは1910(明治43)年。家業そっちのけで寄席道楽に明け暮れていたという吉兵衛が、北区天満にあった寄席「第二文藝館」を買収して妻のせいとともに寄席経営に乗り出したのが1912年4月1日(現在の吉本興業創業日)。二人は小寄席の端席を次々と買収し、「花と咲くか月と翳るかすべてを賭けて」との思いから「花月」と名づけ、大正末には大阪だけで二十余りの寄席を経営し、東京へも進出する。