120年前のきょう、1898(明治31)年3月29日、東京美術学校(現・東京藝術大学)の校長・岡倉天心(本名・覚三。当時35歳)が「美校騒動」と呼ばれる騒動のなか辞職した。天心は新しい日本画の創造を唱え、その実現のため創設に尽力した同校で1890年より校長を務めてきたが、志半ばで退くことになった。

岡倉天心 ©共同通信社

 ことの発端は、帝国博物館(現・東京国立博物館)の初代総長の九鬼隆一に対する更迭運動だ。このとき帝国博物館理事兼美術部長を務めていた天心は、九鬼の留任と引き換えのような形で、自分が博物館の職を辞して収めようとした。だが、今度は天心を誹謗する怪文書が各方面に送りつけられ、美術界は騒然となる(古田亮『カラー版 横山大観』中公新書)。結局、天心は校長職についても辞表を提出、罷免されるにいたった。一連の騒動の背景には、美術界で権勢を振るっていた九鬼―天心ラインへの不平と反感があったといわれる。

 天心の校長辞職にともない、美術学校教授の橋本雅邦以下34名も辞職願を提出する。これに対し文部省当局は、このままでは美術学校の存続自体が不可能になると、慌てて慰留工作に乗り出し、結果的に川端玉章や高村光雲ら12名が辞職願を撤回。雅邦ら辞職貫徹組の辞職願も受理され、騒動はやっと幕引きとなった(清水多吉『岡倉天心――美と裏切り』中公叢書)。ただし、高村光雲が辞表を撤回したのは、このころ鋳造の主任として制作にかかっていた西郷隆盛像を片づけるためで、その処置が済むと6月には再び辞表を出し、退職している(木下長宏『岡倉天心――物ニ観ズレバ竟ニ吾無シ』ミネルヴァ書房)。

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現在の東京藝術大学 ©iStock.com

 天心は美術学校の校長を辞職して半年後、10月には雅邦や横山大観などとともに日本美術院を創設し、あらためて新しい日本画を追究すべく運動を起こす。日本美術院での活動についても毀誉褒貶あったが、天心は1913(大正2)年に亡くなるまで日本の伝統的な美術の振興と革新を主導し続けた。