いまから50年前のきょう、1968(昭和43)年1月29日、画家の藤田嗣治(カトリックに改宗後の洗礼名はレオナール・フジタ)が、入院先のスイス・チューリヒにて81歳で死去した。
1886(明治19)年に東京に生まれた藤田は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、1913(大正2)年にフランスに渡る。1920年代、パリに集まった外国人画家、いわゆるエコール・ド・パリの一人として、独特の乳白色の裸婦像などで名声を得た。第二次大戦が勃発すると、1940(昭和15)年に帰国。だが、戦時中に積極的に戦争記録画を描いたことから、戦後、戦争責任を追及され、ここから画壇とさまざまな軋轢が生じる。結局、藤田はその責任をとる格好で49年に日本を離れ、米ニューヨーク滞在ののち、翌年フランスに戻る。しかし、離日後も日本画壇には悪い噂を立てられることもしばしばだった。彼が55年にフランス国籍を取得し、59年にはカトリックに改宗したのは、日本との訣別という意味合いがあったとの見方もある(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社文庫)。
1960年には、人と会うのを避け、制作に没頭するためパリ近郊の農村へ夫人と移り住み、ここが終の棲家となった。日本と訣別したはずの藤田だが、晩年には、何人かの日本人と交流も持っている。1965年には、日本に住む研究者・夏堀全弘から、大作「藤田嗣治論」が、正確を期すため本人に目を通してほしいと送られてきた。夏堀とは面識はなかったが、藤田はこれに応じ、論文を自らの「自伝」とするため、添削に打ち込んだ。このころ藤田は、人生最後の仕事として、ランスで礼拝堂を建設中だった。礼拝堂の建物が完成すると、その内部を飾るためのフレスコ画に着手。老いた肉体に鞭打ちながら、朝から晩まで作業に集中した。完成に近づいたとき、地元紙の取材を受けた藤田は、いまの心境を訊かれると、穏やかな表情で「この季節は、私の人生の中で最も素晴らしいひとときです」と答えたという(『藤田嗣治「異邦人」の生涯』)。
フレスコ画は1966年8月31日に完成、礼拝堂は「ノートルダム・ド・ラ・ペ 平和の聖母礼拝堂」と名づけられた。それから3ヵ月後、藤田はパリの病院に入院、膀胱がんと診断される。亡くなったチューリヒ州立病院には、転院を重ねた末に入院していた。遺体はフランスに運ばれ、かつて洗礼を受けたランスの大聖堂で葬儀が行なわれた。
夏堀全弘が藤田から受け取った「自伝」を整理した原稿は、2004(平成16)年に『藤田嗣治芸術試論:藤田嗣治直話』としてようやく日の目を見た。藤田を見直す動きは近年ますます盛んで、2015年には東京国立近代美術館で戦争画を含む彼の全所蔵作品が一挙展示され、翌16年には、生誕130年を記念して名古屋市美術館などで回顧展が開催されている。