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民主主義社会の根幹を揺るがす

 その第一は、助成と引き換えに私学経営の根幹である授業料に自治体が手を突っ込んで枠をはめ、私学への完全な価格統制に着手したことだ。こんな乱暴な政策は、私学教育が始まった明治維新以来なかったことではないだろうか。

 新しい日本の幕明けとなった明治期、福沢諭吉や新島襄といった先達たちが私財を投じて学校を開き、諸外国の先進的な教育を取り入れた。掲げられた建学の精神は、時代を超え現在に受け継がれている。

 さらに戦後、人口の急増と進学率の上昇に伴って公立の定員が追いつかなくなると、国は私学に公教育の一部を引き受けてもらう代わりに、経常経費を助成する仕組み(1975年の私立学校振興助成法等)を整えた。税金で賄う公立と、授業料と公的助成で賄う私立を車の両輪に、公教育を整備してきたのである。

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 公教育の一翼を担う以上、自治体が助成を調整することに一定の合理性はある。だが、今回はその度を越していて、制度に参画しないなら助成を取り止めるという。半ば強制的に府の下請けに私学を置くような政策で、政治による教育支配は、民主主義社会の根幹を揺るがすものだ。

 さらに進んだ先の未来の絵姿とも重なりそうなのが、19年に開校した公設民営の中高一貫校で運営を受託した学校法人では、特色ある教育を実現するのに、持ち出しを強いられているとも聞く。

 価格にタガをはめ、公共施設の指定管理者の手法を教育にもあてはめて、コスト削減で間に合わせようとしている。この圧力は、今後、標準授業料をテコにして私学に向けられるかもしれない。無償化という耳触りのいいキャッチフレーズが、その危うさを見えにくくしている。

広がりつつある公立高校空白地帯

 第二の問題は、橋下氏の知事時代の言葉通り、維新は公私問わず学校間の人気競争を迫り続けていること。学校の淘汰による教育費削減の意図はあからさまで、結局「なんぼの得があるのか」という、コスパ発想なのだ。