羽鳥を演じる草彅剛は「棒」なのか
草彅剛が演じる羽鳥善一は、どんなときでも飄々と淡々として、“楽しさ”を第一に、たいていニコニコとユーモアのある言動で他者と接する。他者の感情に乱暴に踏み込まず、厳しいことを言うときでも決して声を荒げない。北風タイプではなく太陽タイプである。
のほほんとしながら、じつは人一倍、音楽を愛していて、戦争によってやりたい音楽が禁じられたときに眠れない日々を過ごすような繊細な面は妻だけが知っている。上海でも、日本が負けたとき、帰国できないのではないかという不安から、いくら飲んでも酔えないんだと黎錦光に少しだけ弱音を吐いた。
「福来く~ん」とあの独特のライトな話し方を、世間では棒演技ではないか、と見る声もあるが、断じて彼が棒ではないことは、上海の部屋でひとり不安に苛まれている表情を見ればよくわかる。
棒ではないが、嘘のつけない俳優だと思う。これは実際に本人が語っている。映画『サバカン SABAKAN』に出演したときキネマ旬報で行った金沢知樹監督との対談(22年8月上旬号)で“僕は芝居で嘘をつけないタイプだから”と言っていた。その場で感じたことが表情に出てしまうのだ。だから、明るくフラットなライトとスタジオのセットである種、規則的に撮っていく番組だと、「福来く~ん」になってしまうし、たまにライトに凝って陰影がつくと、表情も声もふっと陰りを帯びるのだろう。
演技にはいろいろあって、草彅剛の演技の特性は同調能力の高さにあるように思う。例えば、23年の暮れに放送された『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(NHK)で演じた主人公は、芯の強い静けさを帯びていた。
コーダと呼ばれる、両親、あるいはどちらか一方の親がろう者の子どもとして葛藤を抱えながら、彼の使う手話は、正しく感情や状況を伝える。揺れる心と的確な動作はまるで綱渡りを行う者のようで、その緊張感から原作の深さまで伝わってくる。11年ぶりに出演した『世にも奇妙な物語』の『永遠のふたり』(フジテレビ系)では、いい意味のお台場感(少しバブルな華やかなエンタメ感)が漲っていた。
スター俳優には、いついかなるときも自身のクオリティーをキープする能力に長けた人が多いが、草彅の場合、周囲の空気に馴染み、的確に再現する能力に長けている。つまり、彼を見ていれば現場の求めるレベル、あるいは現場のポテンシャルがわかってしまうという、ある意味、おそろしい俳優である。
師匠・つかこうへいが草彅剛に与えた影響
草彅剛の近年の当たり役となった映画『ミッドナイトスワン』のとき、彼は撮影前、主人公の部屋のセットにひとり佇んでいたらしい。理屈で、この人物はこうだああだと考えるのではなく、ただその場で耳をすます、感じる、そこに漂うものを身体に染み込ませる。こういうやり方を彼はどうして身につけたのだろうか、その発露を考えると、劇作家・つかこうへいの口立てにたどり着く。
草彅の演劇の師匠であるつかこうへいは稽古場でセリフを作り、俳優に語りかけ、その通りに俳優は覚えて演じるという独特のやり方を行っていた。筆者は、その稽古場を見たことがあって、一度だけ、至近距離で草彅剛がつかの言葉で変容していくのも見た。
当時は、つかが草彅のなかにある激しいものを引き出しているのだと思っていたのだが、そういうところもある一方で、いまでは草彅が自分の中に、つかこうへいを取り込んでそれを体現していたようにも思うのだ。
ダンスの振りをまず覚え、そこに多少アレンジを加えるように、まず正確に作家の口調をなぞり、自分の肉体を通して表現してきたことが、その後の草彅の芝居に生かされているのではないだろうか。
だからこそ、羽鳥善一を通して、音楽家・服部良一が主人公として、鮮やかに立ち上がり、ほかの登場人物を凌駕しそうになるのだろう。でも、決して出過ぎない。ある一線から出過ぎることを抑制して、本当のヒロインを前に立たせている。優しさというのか上品さというのか、この物語の主人公は誰なのか、わきまえる、そこが草彅剛である。