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「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」臨月の妻を居間に引きずり出し…巨大ヒグマが見せつけた“執拗な残忍さ”

『慟哭の谷』#2

2024/01/20

source : 文春文庫

genre : ニュース, 社会

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 神ならぬ身の知る由もなく、大役を果たし、この夜遅く苫前村の小畑旅館に辿りついた斉藤石五郎は、歩き疲れた体を、好きな酒に癒やし、やがて深い眠りに陥ったのであった。なんとも、遣り切れない思いである。

重傷を負った母ヤヨが絶叫する

 事態のただならぬ気配を察知した50余人の討伐隊員は、すでに明景家を二重三重に包囲していた。

「力蔵!」

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「金蔵!」

「ヒサノ!」

 重傷を負った母ヤヨが絶叫する。

 いったんは川上の隣家、中川孫一家に避難したものの、わが子を案ずるあまり、いてもたってもいられなくなったのだ。とうとう周囲の制止を押しきってわが家の前に戻り、半狂乱になって子どもの名を呼び続けた。屋内には、長男・力蔵、三男・金蔵、長女・ヒサノ、川上から避難してきた斉藤石五郎の妻・タケ、その三男・巌、四男・春義の6人が取り残されている。

12月10日午後8時50分~9時40分頃、明景家に窓から侵入した熊に、明景金蔵、斉藤タケ、巌、春義は殺害されたが、穀俵の陰に隠れていた明景力蔵と、失神していた明景ヒサノの2人は奇蹟的にも無傷で助かった。

あまりにも長い魔の1時間

 血気さかんな討伐隊員も、誰一人として屋内に踏み込むことも、発砲することもできなかった。熊がどこにいるのか、皆目見当のつけようがないのだ。屋内は真っ暗闇、救いを求めて泣き叫ぶ婦女や子ども、断末魔のうめき、人骨を咬み砕く異様な響き、熊の暴れまわる鈍い音。時折屋内が静まり返ったと思うと、今度はかすかなうめき声とうわごとが聞こえてくる。もはや生存する者はいないと、誰もが思わずにいられなかった。熊は依然として立ち去る気配を見せず、隊員はおろおろし、ただただ家の周囲を右往左往するばかりである。

 それはあまりにも長い魔の1時間であった。

 このとき、「家もろとも焼き払え!」という怒号と、「一斉に家の中を撃ってしまえ!」という声が激しく起こった。無謀極まりないこの手段は、もはや生存者はいないという大方の判断からであった。この処置にただ一人必死になって反対し続けたのは、重傷の母、ヤヨであった。「万が一生きているかもしれない」、ただそれだけの望みを抱き、はやる隊員を説き伏せたのである。誰も彼もが興奮し、血まなこであった。

 断末魔のうめき声は、なおも細く長く聞こえ、手をこまねく隊員の胸をえぐった。救いの手一つ差し伸べることができぬまま、時は無情にも経っていく。

「神も仏もないものか」と、隊員は空を仰いだ。息詰まるような長い時が流れていく。

 やがてうめき声は絶え、熊が屋内をまさぐる鈍い音だけが聞こえてくるようになった。隊員たちは、「いまに熊がとび出す」と判断し、10人あまりの腕利き射手を出口の片側に配置し、ころあいを計ってまず谷喜八が夜空に2弾を放った。予想はものの見事に的中、熊は猛然と入口を破ってとび出し、戸口の一番近くにいた“南部の禿(はげ)マタギ”の眼前に大きく立ちはだかった。

 撃ち倒すには絶好の態勢である。