血気盛んな若者も、この時ばかりは恐怖のあまり先頭にもしんがりにもなろうとせず、ただただ雪道を帯のように連なり、黙々と下流に向かうのだった。婦人や子どもの中には、恐ろしさのあまり泣く者、雪に足を取られて転倒する者も出て、命からがらの避難であった。やがて一行は3キロメートル下流の辻家にたどりついた。
巌は「水! 水!」と激しく叫び続け…
避難者の中には、あわてるあまりにつっかけ草鞋(わらじ)や下駄ばきの者までおり、恐怖のため寒さも感じない様子だった。一方、家を出るとき熊は火を恐れると教えられたことから、各戸の庭に山と積まれた薪に火が放たれた。燃え上がった焚火は夜空をこがし深夜の開拓地には随所に異様な明りが広がった。
このときの行列には、明景家で深手を負った4人がおり、辻橋蔵家に収容された。中でも瀕死の斉藤巌は左股が骨だけ残り、皮膚はぼろ布のようにズタズタにされむごたらしいものであった。彼は「水! 水!」と激しく叫び、時折、「おっかあ、熊獲ってけれ!」とうわごとを洩らし、人々の深い憤りと涙を誘った。辻家の妻女リカが茶わんで水を与えると、彼は瀕死の者とも思えぬ勢いでこれを飲み下した。なおも「水! 水!」と激しく叫び続けたが、やがて声も細り20分後には帰らぬ人となった。
この夜は何分にも遅く、重傷のヤヨ、梅吉、オドの3人は辻家で応急の手当てを受け、翌12月11日さらに3キロメートル下流の森伊三郎家まで下り、被災3日目の12日になって、やっと古丹別の沢谷房吉医院に収容された。
この夜部落おちした人々のほとんどは三毛別分教場に収容された。だが中には恐怖のあまり、遠く古丹別や苫前、羽幌まで逃れる者も出るほどだった。
やがて、辻橋蔵家も危険区域に入ったため、12日午前には、同家の全員もさらに3キロメートル下流の安全地域まで退避した。こうして遂に、救援隊から選り抜かれた決死の隊員7人と精鋭の若者十数人だけが開拓地の中に留まることになった。