1915年の暮れ、北海道苫前村三毛別(とままえむらさんけべつ)の開拓地にあらわれた人喰い羆(ひぐま)は何人もの女性や子どもたちを食い殺し、胎児を掻き出し、開拓移民小屋10軒を荒らしまわった。世界にも類を見ないこの食害事件の真相について生存者の証言を丹念に聞き取った元林務官・木村盛武氏によるノンフィクション『慟哭の谷』より、「第2章 通夜の亡霊」を紹介する。「マユ。マユはどこだ!」。そんな叫びもむなしく、亡くなったマユと幹雄の通夜がしめやかに執り行われていた。(全2回の1回目/後編に続く)
◆ ◆ ◆
マユと幹雄の通夜
この惨事に開拓地の人々は皆、一様に恐れおののき、数キロメートル下流の安全地帯に避難しようと準備を始めた。
ちょうどそのころ、隣村の力昼(りきびる)から、亡くなった幹雄の実の両親ら3人が太田家に到着した。夜になってマユと幹雄の通夜がしめやかに執り行われた。参列者は力昼から来た幹雄の両親と知人の斉藤信之助、開拓部落から中川長一、松村長助、池田亀次郎の3人、三毛別部落から、堀口清作ほかの2人、合わせて9人だけであった。というのも、“熊は獲物があるうちは付近から離れない”と、小さいときから聞かされてきた開拓民と、三毛別の農民たちは恐怖のあまり、太田家に近寄れなかったためである。
この日、夕暮れまで巨熊を追跡していた谷喜八が、帰りがけに太田家にちょっと顔を見せた。
「どうせ食われるならもう2、3人も食われりゃよかった。一緒に弔ってやるのにな。今夜はみてろ、9時ころ必ず熊がくるぞ」
と、彼はとんだ悪態をついた。口の悪いことにかけては村一番と言われていたマタギの彼だが、いたって人柄も面倒見もよく、誰からも好かれていた。
「明日も熊撃ちだ!」
と言い残すと、彼はそそくさと太田家を出て行った。
悲しみの通夜は終わった。変わり果てた2人の遺体に太田は男泣きし、少年の両親は声をつまらせ放心状態であった。
「熊だ! 逃げるな!」
幹雄の母チセは、肩をおとしながらも持参してきた清酒を参列者に注ぎ回り、2回目の2人目に注ぎ足そうとしたそのとき、ドドーンという物音とともに遺体を安置した寝間の壁が打ち破られ、黒い大きな塊が立ちはだかった。居合わせた誰もが、無惨な死を遂げた2人の亡霊が出た、と直感した。
たちまちランプが消え、棺桶はひっくり返されマユと幹雄の遺体が散らばり、異様なまでに生臭い息づかいがあたり一面をおおった。
「熊だ!」
谷の予言はものの30分とたたぬうちに的中してしまった。熊が遺体を奪い返しに来たのだ。
「熊だ! 逃げるな!」
熊と気付いた斉藤信之助が絶叫した。