食料、就職難につけこんで7人の若い女性を強姦・殺害…。人並み外れた性欲から、戦中、戦後まもない間にかけて、多くの女性を“食い物”にした小平義雄(こだいら・よしお)。かつて国から勲章を授けられるほどの功績を上げた男が「昭和最悪のレイプ魔」に堕落した理由とは? 新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全4回の1回目/続きを読む)
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強姦のために7人殺害――昭和最悪のレイプ魔
太平洋戦争末期から敗戦直後の東京を中心に、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦、少なくとも7人を殺害した男がいる。小平義雄。己の性欲を満たすためだけに尊い命を虫けらのように奪った小平はまさに性獣、その犯行は鬼畜と言うよりない。
小平は1905年(明治38年)、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)で6人兄弟の三男として生まれた。父親は一時、村一番の商人宿を経営する金持ちだったが、酒や博打、女にうつつを抜かし破産。暮らしは貧しかった。
吃音症の友人の真似をしているうちに自らも吃音を患ったのが4、5歳のころ。ほどなく入学した尋常小学校での成績は芳しくなく、卒業時の成績は23人中21番だった。
15歳で上京し鋼材会社の見習工や食料品店店員、地元の足尾銅山の古河精銅所工員など職場を転々とした後、1923年(大正12年)6月、18歳で自ら志願し海軍に入隊。ここから人生が狂い始める。
まずは横須賀海兵団で訓練を受け、機関兵として戦艦や潜水艦に乗り組み、海外への遠洋航海へ。大きな影響をもたらしたのが日本軍が中国に進出した山東出兵さなかの1928年(昭和3年)5月、蒋介石(1887-1975)率いる国民革命軍と日本軍が山東省済南市で武力衝突した済南事件である。当時、小平は海軍陸戦隊員として日清紡工場の防備に当たっていたのだが、事件勃発により激しい市街戦を体験。中国兵6人を銃剣で刺殺する“成果”をあげる傍ら、同僚とともに中国人の家庭に押し入り、父親を縛り上げ娘を強姦した。
後の小平の証言によれば「強盗強姦は日本軍隊につきもので、時には妊娠している女の腹を引き裂き胎児を取り出したこともあった」そうで、中国でのこの犯罪経験が後の残忍な強姦殺人に関連していることは想像に難くない。
1929年、戦功を認められて勲八等旭日章を受け、三等機関兵曹として除隊。約6年間の海軍生活では兵隊相手の女性との性交渉が何よりの楽しみで、特にヨーロッパに寄港した際はそのたびに白人娼婦を買い漁り一晩で5回射精することもあったという。小平の性欲は人並み外れていた。
兵役を終えて古河精鋼所に復職。1932年1月、28歳で勤務先の上司の姪のてると結婚する。が、その裏で小平は親戚の娘2人(当時18歳と21歳)と性的関係を持ち、1人に妊娠・出産させていた。同年6月、この事実が明るみとなり、激怒した妻が離婚を申し立て半年足らずで実家に舞い戻る。復縁を懇願するも、てるは聞く耳を持たない。これに小平は逆上。