1946年、和歌山県和歌山市で子供を含む8人を虐殺した26歳男。彼はなぜ凶行に及んだのか? 多くの人間を殺めたにもかかわらず、死刑から逃れた「ある事情」とは? 新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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8人を殺害した「ある殺人鬼の人生」
第二次世界大戦終結から5ヶ月後の1946年(昭和21年)1月、和歌山県和歌山市で一家8人が惨殺される事件が起きた。犯人は一家の主人の実弟である大橋一雄(当時26歳)。動機は、兄夫婦に邪険に扱われ死んだ実母の恨みを晴らすためだった。
大橋は1920年(大正9年)、和歌山市で県庁官吏(公務員)の父親の子供として生まれた。家庭は裕福で何不自由なく育ったが、大橋が9歳のときに父親が病死。以降、自宅の隣で歯科医院を開業していた15歳年上の兄勝一さんの家で暮らすようになる。時を同じくして、勝一さんは両親から反対されていた交際相手の伸枝さんとの結婚を強引に押し進める。父親が病死したことが契機となったのだが、渋々結婚を認めた母親はその後も良い顔をせず、これが家庭内の不和を呼ぶ。
それでも当初は、表向き上手くいっていた。しかし、母が老い、そのぶん義姉が力を増してくると母は邪魔者扱いされ、時には暴力を振るわれるなどの「姑いじめ」が激しくなっていく。大橋は一人心を痛めることしかできなかった。
地元の中学を卒業後、高校受験に失敗。無線電気学校に1年間通った1940年3月、現役志願兵として広島通信隊に入隊する。家の空気に耐えられなかったのが大きな理由だが、入隊5ヶ月後、「ハハキトク」の電報を受け、急いで帰宅する。が、母の症状はほどなく改善。大橋は兄嫁の虐待を疑いつつも軍籍にある身。後ろ髪をひかれる思いで帰隊したところ、3ヶ月後の同年11月、今度は本当に母が亡くなってしまう。
通知を受けた大橋は、改めて虐待によるものと思い込み、この際、兄夫婦を殺し母を弔おうと決意を固め帰省するが、死因は心臓麻痺だという。にわかには信じがたいものの証拠はなく、叔父になだめられたこともあり実行を思い留まった。
その後、戦局の悪化に伴い、中国・漢口、上海、北海道に通信隊員として転戦し敗戦とともに除隊。1945年10月に復員し、空襲で焼け出され跡地でバラック住まいをしていた兄一家宅に身を寄せる。