「両親がいなくなって不憫」という身勝手な理由で、和歌山市で子供含む8人を虐殺した犯人男。いったい男はどんな人物だったのか? そして、なぜ一度は死刑判決されたにもかかわらず、逃れることができたのか? この特殊な事件の顛末を、新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
◆◆◆
身勝手な理由で子供まで殺害
1946年1月29日深夜、大橋は手斧にノミを用意して兄(当時42歳)と兄嫁(同41歳)ばかりか、兄夫婦の子供も「両親がいなくなって不憫」という身勝手な理由で、16歳、13歳、7歳、3歳の男児と、14歳、10歳の女児、計8人を虐殺する。その後、「これは母の敵討ちだ、1ヶ月後に自首する」などと自己正当化する書き置きをして逃亡。
和歌山県警は全国に指名手配をかけるが、1ヶ月しても大橋が出頭することはなかったばかりか、その間、長崎県内の炭鉱に偽名で働き寮長に推されるまでになっていた。しかし、「自分の良心に反する生活が嫌になった」として、2年後の1948年3月19日に大阪市にある朝日新聞社大阪本社に自首目的で現れ、その場で逮捕された。
殺人罪で起訴された大橋に対して、和歌山地方裁判所は1948年4月27日に死刑判決を下す。同年12月6日の控訴審判決も控訴棄却されるというスピード判決を下した。大橋本人は上告しないと表明していたが、弁護人は最高裁に上告。しかし最高裁は「被告人の意思に反した上告は不適法」として1949年8月18日に上告を退け、死刑が確定した。
しかし、処刑を待っていた1952年4月28日、大橋は突如、無期懲役に減刑される。この日、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約(第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約)が国会の承認を経て発効したが、法務当局は「国家的慶事」として数多くの刑務所収容者を恩赦減刑し、その中に大橋を含む確定死刑囚12人が含まれていたのだ。
8人を殺害しておきながら無期懲役とは信じがたいが、たまたま時期的めぐりあわせで国家の特典を受けることができたようだ。その後、大橋は大阪拘置所の死刑囚監房から大阪刑務所に身柄を移され、逮捕から20年後の1969年春に出所。以降の消息は伝わっていない。