同年7月2日午前2時ごろ、上都賀郡東大芦村(現・鹿沼市)のてるの実家に押し入り、約75センチのバールで家族を滅多打ちにし、彼女の父親(当時64歳)を殺害。その妻、てる、孫、長男、次男、四女、同家に泊まっていた男性の計7人に2週間~5週間の大怪我を負わせる。
騒ぎを聞きつけ駆けつけた近所の住民に取り押さえられ緊急逮捕。この殺傷事件により懲役15年の実刑判決を下されるも、国家の慶事による2度の恩赦で刑期は短縮され1940年9月、事件から8年あまりで仮出所する。その後は、機関兵の経験を活かしボイラーマンとしていくつかの工場を転々とし、太平洋戦争勃発時には飛行場建設要員としてサイパンへ渡航。
1943年8月、東京都品川区の海軍第1衣糧廠のボイラー係となった。そして1944年2月に前科を隠し再婚。翌1945年2月に長男が生まれたが、空襲が激しくなってきたため妻子を妻の郷里の富山に疎開させ、自分も後から衣糧廠を退職して同地へ疎開。
世にもおぞましい強姦殺人
敗戦後、再び上京して渋谷の近くに住み、妻子を迎えて、1946年3月に新聞広告に応募して芝高浜町(現在の東京都港区)の海軍経理学校跡にあったアメリカ軍のランドリー兵舎(洗濯工場)で働き始める。過去に殺人・傷害の前歴があるにせよ、表の経歴だけをたどれば順調に社会復帰を遂げたとも思えるが、その間、小平は世にもおぞましい強姦殺人を働き続けていた。
