悲鳴をあげ右往左往の大混乱
予期せぬ出来事に肝をつぶした参列者たちは、熊がどこをにらんでいるのかまったく見当がつかず、悲鳴をあげ右往左往の大混乱となった。何せ家とは名ばかり馬小屋同然の掘っ立て小屋、逃れる場所とてない。あるものは屋根裏の梁に、あるものは厠に逃れた。このとき、いち早く外に飛びだした中川長一が大声で怒鳴りながら、石油缶を叩き続けた。これに呼応して屋内の悲鳴が怒号に変わった。そこに、日露戦争帰りの勇者、堀口清作が銃を放ったところ、さすがの熊も家から跳び出し暗闇に姿を消した。この時、外に逃れた2、3人が数メートル先の小道を逃げていく黒い熊の姿を目撃した。
彼らが我に返ったとき、救援隊員の叫び声が間近に聞こえてきた。
「おーい、おーい」
「もう大丈夫だぞう!」
救援隊の到着がこれほど早かったのは、運よく300メートルほど下流の中川孫一家の周辺に50人ほどが集合し、警戒に備えて食事中だったからである。異様な物音と叫び声に、「すわ一大事!」とばかりに太田家を包囲したのである。熊の乱入からわずか10分ほどの早業であった。
目の前で巨大な熊に踏み込まれ…
この時、放心状態で外を右往左往する2人と、天井の梁にしがみついていた2、3人、さらに厠の3人が救出された。目の前で巨大な熊に踏み込まれた斉藤信之助は腰が抜けて立てず、駆けつけた救援隊員に危うく射殺されるところだった。というのは、立ち上がろうと焦るあまり、自分が座っている厚ムシロを引っ張り上げていた。ところが、ムシロの重みでハネ返るときのバタバタする音と、しゃがみこんだ姿がまるで熊のように見えたからであった。彼はいたって人柄がよく、酔うほどに使い古しの三味線を引き寄せ、ところかまわず歌いまくるので、「芸者木挽」のあだ名がついていた。はるばる力昼から通夜に参列し、この災難にあったわけだが、日ごろの快活ぶりはどこへやら口も利けない状態であった。
この大騒動のおり、堀口清作ただ一人が敢然として屋内に踏みとどまり、人々の称賛を浴びた。一方、この堀口とはまったく裏腹に評判を落とした男がいた。蓮見チセの夫、嘉七である。熊の侵入に、彼はいち早く妻のチセを踏み台にして屋根裏の梁にかけあがったのだった。踏み倒されたチセは堀口に助けられてようやく天井の梁に逃れたのである。こんなことから嘉七は死ぬまでチセに頭が上がらなかったという。これは、チセさんの述懐である。