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 ステージとフロア、双方に問題があった。場内乱闘で怪我人が絶えず、連日のように救急車を呼んだ。火災報知器が鳴り響いて消防車が来る日も少なくなかった。さらにライブハウス周辺ではパンクスのお客が開場前にも終演後にもたむろするようになり、ビルのオーナーや近隣の住民からたびたび抗議を受けた。

 さすがの私もこれにはたまりかねて、遂に腹を決めた。すなわち、「もうこれが限界だ。大事故を避けるためにも、ロフトではハードコアパンクのライブを禁止する」。ライブハウスで発せられる表現とは本来自由なもので、誰に対しても門戸は開かれているというスタンスでロフトを運営していた私にとって、この決断はとても憂鬱なものだった。

店長とスタッフからの呼び出し

 1981年8月29日夕刻、私は新宿ロフトの店長以下、スタッフ全員から呼び出しを受けた。あの日本のパンクの先導(煽動)者・地引雄一らが仕掛けた、『FLIGHT 7DAYS ~インディペンデント・レコード・レーベル・フェスティバル~』最終日のことである。

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 ロフト事務所から新宿西口のロフトまでは300メートルほどだった。小滝橋通りには、交通渋滞の自動車がぎっしり詰まっていて、クソ蒸し暑い残暑とメタンガスの臭いのする黒い排出ガスが低く澱んでいた。

 公害を垂れ流しながら高度成長に突っ走る日本、このシーンの数年後にあの愚かなバンド・ブームがやってくる。その前哨戦でのパンクスの雄叫びとも言える状況だったのだろうか。行き場のない若者群像……髪の毛を逆立てたモヒカン、革ジャン、金属の鎖や鋲付き黒装束の若い男女が不気味にいくつもの塊になってたむろしている。

 私は汗をかきながらロフトの入り口に着いた。日が暮れる前から、ロフトの前の駐車場で酒盛りをしている連中もいる。「もうお祭りをやっていやがる。こいつらは店の中には入らず、ただ騒ぐのが目的だ。しかし強制排除する理由がない。そんなことをしたらかえって混乱を招くだけだ」と私は舌打ちをした。彼らは時々通行人を襲ったり、通る車にビール瓶を投げつけたりする、本当に困った連中だった。

 ロフトの向かいには「はとバス」が停まっており、田舎から東京観光に来たお客にバスガイドが何やら、この得体の知れない不気味な連中のことを説明している。「また観光バスかよ。一体どんな説明を田舎者にしているんだろう? ロフトがいくらはとバスの観光コースになっても、奴らが店に入らない限り一銭の得にもならんよな。お前らがそうやって見に来て煽るからこいつらがつけあがるんだ」とぼやいて、酒盛りしている連中に「ここで焚き火は厳禁だぞ。そしてケンカもだ!」と厳命し、私は店に入った。そんなことを聞く連中ではないことは私が一番よく知っていたが……。

写真はイメージ ©getty

 この頃の私は、「ハードコアパンク……もうどうでもいいよ。でもこいつら、一体どこへ行くのかな?」と若干の好奇心もあったが、少々自暴自棄になってもいた。ちょうど、近隣住民による1回目の「ロフト出て行け!」の署名運動と訴訟まで起こされ、頭を抱えていた時期でもあったのだ。