「ウチではちょっと……」
今では多くの人が知る伝説的「BOØWY」。ところがデビューして間もない頃は、音楽的才能は豊富なのに、誰もが“彼らの扱い”に困った理由とは? ライブハウス「ロフト」創始者である平野悠氏の新刊『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
高崎の不良バンド、BOØWYが私の最後の音楽仕事になった
下北沢ロフトの店員バンドだったサザンオールスターズ、ロフト・レーベルからデビューした竹内まりやと将来性を見込める新人を発掘したものの、当時のロフトはとにかくお金がなかったのでこれらの表現者に対して何の援助もできなかった。
そんな忸怩たる思いが募るなか、1981年の春頃、業界で天下を取っていたあのビーイングの創業者・長戸大幸が私を訪ねてきて、唐突にこんなことを言い出した。
「高崎出身の暴威という新人バンドの面倒を見ることになったのですが、これがちょっと破天荒な連中でして。元暴走族なんですよ。それでこの不良バンドを扱えるのはロフトの平野さんしかいないと思いまして。彼らの音楽性には将来性を感じるのですが、自分には手に負えない不良バンドなので、なんとか平野さんに面倒を見てやってほしいのです」
そうして渡された暴威のデモテープを聴いてみた。いま思えば、「IMAGE DOWN」や「NO. NEW YORK」といった初期の代表曲が入っていたのだろう。
「おっと、いいサウンドしていますね。面白い、これはいけるかも。天下のビーイングと組んで仕事ができるなんて面白そうだし、もちろん引き受けさせてもらいます」と、私は少々興奮して答えた。
少し時間を置いて彼らと会うことになった。ギラついた目の切れ味鋭いカミソリみたいな連中だった。ボーカルの氷室京介(当時は狂介)、ギターの布袋寅泰と諸星アツシ、ベースの松井常松(当時は恒松)、ドラムの木村マモル、サックスの深沢和明。最初は6人編成のバンドだった。まもなくドラムが高橋まことにチェンジし、1982年10月にギターの諸星、サックスの深沢が脱退する。