氷室も布袋も「今月で解散する」などと平気で言う状態が続いたが、そんな状況とは裏腹に、彼らの動員力はさらに増していった。
ビーイングから切られた彼らは、かつて群馬で布袋と一緒にバンドをやっていた土屋浩(BOØWYの伝記『大きなビートの木の下で』の著者、紺待人としても知られる)がマネージャーに就いた。当時は高円寺でスタジオを経営していたこの土屋が大変な切れ者だった。
「平野さん、BOØWYから逃げるんですか?」
マネージャーが土屋に変わった頃からロフトの300キャパでは入り切らなくなり、徳間ジャパンから2作目のアルバム『INSTANT LOVE』を出せる見通しもつき、やがてBOØWYはその主戦場を1000人キャパの渋谷ライブ・インへ移すことになる。
そうなるともう私の出番はなくなり、ある日土屋と話した。
「ビーイングが手を引いたように、俺もBOØWYから手を引く。あとは頑張ってくれ、土屋」。そうエールを送った。
「平野さん、BOØWYから逃げるんですか?」
「いや、こんないつ解散するかわからんバンドとはこれ以上付き合えないよ」
「そんなことありません。BOØWYは解散させません。自分が責任を持ちます」
「俺にはもう興味がない。あまりにも長くライブハウス業界にいたせいか、音楽からちょっと離れて長い海外の旅をしたいと思っているんだ」
「見ていてください。BOØWYは絶対天下を取ってみせます。絶対に!」
土屋は私の前で涙を流しながらそう訴えた。だが当時の私は音楽の仕事にほとほと疲れ果て、どうやってロフトを畳んで無期限の海外放浪の旅に出ようかと考えていた。そしてその計画を実行に移した。
その1年後、私はBOØWYのブレイク、大成功、そして解散を日本から遠く離れたアフリカの地で聞くことになった。結局、無力な私はBOØWYのためにやれることなど何一つなかったのだ。
後年、ロフト時代を回顧した氷室が「あの(新宿ロフトの)薄暗い地下のスペースから自分自身の歴史が始まったことを、いつだってとても誇りに思っています」と言ってくれたが、彼の言葉を聞くたびに私は今でもとても複雑な気持ちになる。