1981年5月11日、暴威は『暴威 LOFT FIRST LIVE!!』と題したライブでロフト・デビューを果たしたが、初ライブにして初ワンマンの客はわずか13人(男性9人、女性4人)。このとき、客席に加入前の高橋まことがいたのは有名な話だ。
「遅っせぇ~なぁ! どうなってんだよ!」
また、新宿ロフトでは土曜に「新人バンド公開オーディション」を設けており、何組かのバンドと一緒に暴威をブッキングした。あるとき、リハーサル時間が押したことに怒った待機中の氷室が、いきなりテーブルを叩きながら「遅っせぇ~なぁ! どうなってんだよ!」と大声で怒鳴り出した。店長が「もう少し待ってくれないか」と言うと、「誰だ! てめぇ~は!」と毒づく始末。
幸い、このロフトの店長と高橋まことが旧知の間柄だったことがわかり、事無きを得たのだが、まだ無名の新人バンドがロック小僧の聖地である新宿ロフトの店長にケンカを売るとは、度胸がいいにも程がある。
長戸大幸に「何とかしましょう」と約束した手前、放り出すわけにもいかず、その後も手を焼かされたものである。レコード会社のプレゼンテーションにメンバーが大遅刻をやらかしてみたり、どのレーベルの幹部も、その不良性に「ウチではちょっと……」と二の足を踏んだ。
その後、ビーイングのある大物アーティストを契約させる見返りとして、ようやくファースト・アルバム『MORAL』を1982年3月に出せることになった(この時点でBOØWYに改名)。だが、レコード会社はアルバムのプロモーションもろくにせず、誰も彼らの才能を見抜くことができなかった。そもそも「エアロスミスとアナーキーとサザンを足して3で割ったバンド」というレコードの帯コピーからしてセンスの欠片もなかったのだ。
そんな不満を解消すべく、彼らはライブに打ち込んだ。『GET HOT ROCKS!』『Do The R&R』といったシリーズGIGを新宿ロフトで月1ペースでやり続け、4人編成になって以降は動員もどんどん伸びて将来性も見えてきた。
だが、その辺りからBOØWYにはメンバー間で不協和音が生じるようになり、いつ解散してもおかしくない状態が続いた。そしてついに、1年余りでビーイングがBOØWYから手を引くことになってしまった。その理由は複合的なものでなんとも言えないが、解散は時間の問題だったはずだ。ビーイングが手を引いた後も私はBOØWYが2枚目のレコードを出せるように東奔西走したが、どのレコード会社からも良い返事はもらえなかった。そんな折、またもやBOØWYに解散の噂が流れたのだ。
「いま君たちに重要なのは解散することではなく、BOØWYの旗をどこまで高く掲げられるかなんだよ。君たちを応援する人たちはみんな頭を抱えて悲しんでいるんだ」と私は布袋を説得したこともある。