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 よほど困ったのか、親父にマル暴から、「小日向が何もしゃべらなくて、少年課が困っている」と言ったようです。

 数日すると弁護士の先生が面会に来て「矢野さんがね、やったことはやったと認めて、早く出られることを考えろと言っているよ」と言ってきました。

 そして取り調べの時、「いつまで黙っているんだ」と言われ、「先輩はどんな調書巻いてんの? 見せてよ、見せてくれなきゃ話さない」と言うと、刑事は調書のコピーを「内緒だぞ」と言ってすぐ見せてくれました。

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ヤクザ時代の思い出

 問題は血まみれになった灰皿でした。

「これを使ったのはどっちだ?」と聞かれました。先輩の調書には「それを使ったのは俺じゃない」と書いてありました。

 逮捕時の「やったのは全部俺だぞ、お前は止めただけだからな」と言ったのは嘘でした。

 私は「指紋をとったらいいじゃないか」と、言いましたが、あまりに血まみれでとれないようでした。

 それから先輩の調書に沿って、先輩がやっていないと言うところは、私がやったという、嘘の調書を巻きました。それから少年鑑別所に入れられました。そして保護観察処分になり、40日ほどで出ることができました。警察にいたのが20日として、あわせて2ヶ月で出ることができたということになります。

 帰ってくると、簡単な放免祝いをしてくれました。とても嬉しかったのを覚えています。それから何とか車の免許を取り、親父の車の運転手になりました。

 そんなある日、北海道で義理事があり、親父と2人で先行しました。そして後日、五十嵐の親分と、お供の組長数人がやってきました。私が五十嵐の親分に会ったのは、その時が初めてでした。普段は雲の上の存在の人なので、とても緊張しました。

 北海道の組織の接待で寿司屋に入り、親分に隣に座れと言われ「好きなものを頼め」と言われましたが、緊張で何も頼めないでいると親分が「カニは好きか」と聞いてきて、「好きです」と答えると、板前にカニを注文して、2貫くると私にとってくれて、半分くれたのでした。

「数の子は好きか」と聞かれ、「好きです」と答えると、数の子を注文して1貫とってくれるのでした。他にも頼んでくれましたが、緊張していたので、後は覚えていません。ホテルに一泊する時も組長たちに押し付けられて、親分と同じ部屋に泊まることになってしまいました。今となっては良い思い出です。

日医大病院で殺害された石塚隆組長の棺を担ぐ小日向将人死刑囚 ©文藝春秋

 それから池袋に帰ってしばらくすると、抗争事件があり、事務所待機になっていたところ、五十嵐の親分から名指しで呼ばれました。どうやらボディガードにつけということのようでした。