2003年、暴力団抗争により一般人3人の尊い命が奪われた「前橋スナック銃乱射事件」。前代未聞の凶悪事件はなぜ起きたのか? そして事件から20年経った今だからこそ犯人が明かした後悔とは――。

 実行犯であった、小日向将人死刑囚の手記の内容を新刊『死刑囚になったヒットマン 「前橋スナック銃乱射事件」実行犯・獄中手記』(文藝春秋)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

小日向死刑囚の手記 ©️文藝春秋

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「スナック銃乱射事件」犯人の反省

 私が起こした一連の事件は、平成13年(2001年)8月18日に東京都葛飾区にある四ツ木斎場で起こった襲撃事件に端を発し、この事件で、「住吉会住吉一家向後睦会、熊川邦男会長」、「住吉会滝野川一家七代目、遠藤甲司総長」が殺されました。

 私は今、ヤクザの世界からすっかり足を洗い、報復のためにスナック銃乱射事件などを起こしたことを深く反省し、被害者の方々やその御遺族の方々に謝罪し、そして亡くなった方々のために毎日祈っています。

 この本を書くにあたって、平成から令和に時代が変わり、そろそろ話してもいいだろうと思っていた矢先に、令和2年(2020年)の1月に主犯である住吉会幸平一家矢野睦会、矢野治会長が、東京拘置所で自殺してしまったのです。

 この本を読んでほしかった主犯者がいなくなってしまいましたが、今後同じような痛ましい事件が起こらないためにも警鐘をならすべく、昔の話ですが事件当時に戻って思い出しながらつづっていきたいと思います。

出なかったGOサイン

 ヤクザの世界では、「義理場」つまり葬儀や放免祝いのことをそう呼ぶのですが、義理場で発砲事件など抗争事件を起こすことは、絶対にやってはならない「御法度」とされているのです。

 それにもかかわらず、稲川会大前田一家のしかけてきた襲撃事件は、あってはならないことです。しかもヒットマンらは住吉会のバッチをつけ、住吉会の代紋入りのネクタイをしめて、住吉会葬にまぎれ込んでいました。そのあまりにも汚いやり口は、到底許すことはできず、当然住吉会VS稲川会の一大抗争事件に発展するべく、住吉会は全組織をあげて、すぐに戦争の準備を始めました。

 私の所属していた住吉会幸平一家も皆、襲撃準備を整えました。皆というのは、たとえば池袋、新宿、埼玉などそれぞれの組織が各自準備をしたという意味です。

 そうして当時、まだ幸平一家池袋五十嵐組内だった矢野組も、稲川会の人間が出入りしている場所などを確かめに行きました。日頃から他の組織の組事務所や、自宅などを調べているので、間違いないか確認しに行くくらいのものでした。それからいつでも報復できるように潜っていました。潜るというのは潜伏するということです。

 私たちは、東京都の「赤塚大門」(板橋区)という所にあるアパートをアジトにしていました。そこから稲川会の人間の自宅などを色々物色しに行きました。

 よさそうな物件(襲撃しやすそうな所)をいくつか見つけてアジトに帰りました。そのアジトには、矢野組長や井口(仮名)、それに矢野組長の部屋住み(事務所に住み込み)をしていた島崎(仮名)や、私と仲良くつきあっていた林ちゃん(仮名)と私がつめていて、襲撃の合図を待ってうろうろしながら生活していました。

「あとは向後睦会や滝野川一家が音を出せばGOだ」

 つまり向後睦会か滝野川一家が襲撃の音を出せば、それを合図に一斉に住吉会の襲撃が始まるのです。「音を出す」とは発砲する、つまりどこかを襲撃するという意味です。