矢野睦会を立ち上げたばかりだったので、名前を売りたかったのだと思います。その後、矢野睦会会長の指示で何かやっているようで、誰かから数回、「大前田一家の佐川総長の家を襲撃したけれど失敗しているらしい」。このような話がチラチラと耳に入って来て、色々と聞いていました。その襲撃に火炎放射器を使っているとも聞きました。あと、矢野睦会石塚組組長が関わっていたとのことでした。
私は矢野会長から直接、「爆弾を投げ入れたけれど不発だった」とか、「パネルバンのトラックの上に乗り、そこから火炎ビンを投げ入れたり、トラックの上から火炎放射器でガソリンをまいて火をつけようとした」と聞いており、矢野会長も加わったと言っていました。
片岡総本部長は「パネルバンのトラックから飛び降りる時、腰を強く打って痛かった」と言っていました。
また、矢野会長は「火炎放射器を回収するのが大変だった。だから次の襲撃の火炎放射器は、使い捨てできる物にする」と言っていました。私は、「一度やって失敗したことをまた繰り返すのか……」と思いましたが、黙っていました。
その他、沢藤組の百瀬が、解散した大前田一家の佐川の若い衆に追いかけられて、乗っていたワンボックスのバンの後ろのドアを開けて、ガソリン入りのポリタンクを蹴落として、そのポリタンクをマシンガンのウージーで撃ったけど火はつかず、あとから「火なんかつかないですね」と、言っていたのを覚えています。
そんなことをするより、追いかけてくる車のラジエターを撃てば簡単だし、追いかけられなくなるのに……と思いましたが、口には出さず、黙って聞いていました。
日医大病院事件
その後、大前田一家の佐川の家の襲撃に加わっていた矢野会長の配下だった石塚隆組長が、指紋の付いたけん銃の薬きょうを現場に残してきたと、矢野会長から聞かされました。そのことなどで矢野会長に何事か言われた石塚組長は「お前がやれと言ったんだろうが!!」などと、開き直って矢野会長ともめたそうです。それから石塚組長は襲撃に消極的になり、それ以来「俺は殺されるかもしれない」と、周りに漏らしていました。
そのため石塚組長は警視庁の巣鴨警察署に保護を求めて飛び込みましたが、何も事件になっていないために助けてもらえませんでした。
平成14年2月24日に、矢野会長は、「石塚組長を車でさらって殺して埋める」という計画をたて、実行しましたが、さらう段階で抵抗されたため、その場でけん銃で撃つという事件を起こしました。(要町事件)
石塚組長は4発被弾しながらも、日医大病院に運ばれて手術を受け、一命を取り留めました。
ですが、翌25日に集中治療室の窓ガラスを割って入ってきた犯人にまたもやけん銃で撃たれ、背中から心臓に3発、頭に2発の計5発被弾し、執拗に追いかけられて、とうとう殺されてしまいました。(日医大病院事件)