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 殺された向後睦会の熊川の叔父さんは、池袋の親分だった住吉会本部長幸平一家総長代行の五十嵐孝親分のたった一人の兄弟分だったのです。

 撃たれて運ばれた病院で、五十嵐の親分は熊川の叔父さんとしばらく話をしたそうです。その位元気だったそうですが、夜半に容態が急変し、帰らぬ人となったのです。

 五十嵐の親分は悲しんでいました。皆で仇を討とうと話し合っていました。しかし、いつまでたってもGOサインは出ませんでした。アジトで待っているこっちがイライラピリピリしてしまうほど、GOサインは出ませんでした。

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納得がいかない手打ち

 そうしてとうとう、住吉会側から何の報復もしないうちに稲川会と手打ちになってしまいました。手打ちとはケンカの終わりを意味します。手打ちの条件として、事件をしかけてきた稲川会大前田一家の家名断絶、一家を解散すること。総長の佐川(仮名)は絶縁、ナンバー2の後藤邦雄も絶縁、そのほか沖本一家(仮名)の沖本総長(仮名)は、永久カタギにするというものでした。

 この手打ちに、住吉会の若い衆たちからは、不満の声が上がりました。しかし、どうにもなりません。手打ちがなされたことで、私たちの待機命令も解除になりました。

 表面的には稲川会に対する報復は終わったかのようになりましたが、若い衆の間では「なぜ一発も音を出さずに手打ちにしたのか」とか、「このままでは住吉会の看板でメシが食えない」という感じで、かなり不満がたまっていました。

 なぜ大前田一家は熊川の叔父さんや、滝野川の遠藤総長を殺したのか……。もともとは熊川の叔父さんと五十嵐の親分が狙われていたそうです。滝野川一家の遠藤総長は流れダマに当たってしまったのです。大前田一家の佐川総長は、何かの場面で熊川の叔父さんに何か恥をかかされたとか……。それでうらみを持っていたらしく、今回の事件にふみきったと聞きました。

 事件後、五十嵐の親分は、住吉会住吉一家の養子になり、新宿東の貸元になりました。住吉会の東田総裁(仮名)に頼まれてのことだったとの話でした。そうしているうちに、平成14年になり、その年の3月17日に五十嵐の親分が、熊川の叔父さんのあとを追うかのように、ガンで亡くなってしまったのです。

 四ツ木斎場に来ていたヒットマン2人や、見届けに来ていた稲川会大前田一家のナンバー2の後藤邦雄らは、卑怯にも住吉会のバッチをつけ、住吉会の組員であるかのように成りすまし、住吉会の会葬にまぎれ込んでいました。なんとも卑怯なやりくちで、許すことなどできません。住吉会の人間であれば誰しも報復すべきだと考えていたはずです。

 五十嵐の親分が住吉一家に養子に行ったあと、池袋は矢野治組長が跡目になりました。その後、矢野睦会を立ち上げたのです。

矢野睦会長に矢野会長
理事長に柏木理事長(仮名)
総本部長に片岡総本部長(仮名)
本部長に矢田本部長(仮名)
行動隊長に井口行動隊長
事務局長に大岩事務局長(仮名)
事務長に堀内事務長(仮名)
副行動隊長に山田長杉組(仮名)代行(注・山田健一郎死刑囚)
副行動隊長に百瀬(仮名)沢藤組(仮名)代行
副行動隊長に私

 といった布陣でした。

 そして矢野会長は、権力を振りかざし、大前田一家を攻撃しだしました。

「稲川会大前田一家総長だった佐川の家に火をつけろ」とか、「四ツ木斎場に来ていた後藤を殺せ」とか、とにかく言うことが過激でハデになっていきました。

「車のあとをバイクでつけて、信号で止まった所をマシンガンで撃って、ガラスが割れた所に手榴弾を車の中に投げ込め」だとか、歩道を歩いている人や、前後左右に止まったカタギさんの車のことなど、まるで考えていないようでした。言うことがどんどんハデになり、やりくちもひどくなっていったのです。それを実行する若い衆のことなど、なにも考えていないようでした。