かつてここには“光の球場”が…
荒川総合スポーツセンターは、かつてこの地にあったプロ野球のスタジアム、東京スタジアムの跡地だ。現在の千葉ロッテ、当時の大毎オリオンズの本拠地として1962年に開場し、1972年を最後に閉場した。約10年だけ存在した、いわば幻の野球場、である。
東京スタジアムは、当時にしては明るすぎるほど明るい照明や、周囲に低層の建物がひしめく下町の真ん中の野球場だったことから、“光の球場”などと呼ばれていた。
また、スタンド下にはボーリング場が併設され、オフシーズンにはスケートリンクとしても活用された。当時のオリオンズのオーナーだった大映の永田雅一は、将来的に映画館やレストランなども併設する予定だったという。
北海道のエスコンフィールドの例を引くまでもなく、いまでは野球場はそれ単独ではなく、併設施設ともども楽しめる総合レジャー施設になってきている。そのいわば原点のひとつが、東京スタジアムなのだ。
東京スタジアムの周囲はというと、こちらはいまと変わらない下町である。住宅の中には小さな町工場も多かった。そこで暮らしていたり働いていたりする人たちが気軽に足を運べるプロ野球のスタジアム。下駄履きで行ける野球場、などとも言われていたらしい。
球場は解体され、跡地転用も進み…その中でも“変わらないもの”
東京スタジアムの最寄り駅のひとつが、三ノ輪橋停留場だった。その当時は荒川線だけではなく、ほかの都電の路線も近くまで来ていたが、きっと荒川線を三ノ輪橋で降りてスタジアムまで歩いた人もいたに違いない。
結局、スタジアムは1972年を最後に閉鎖され、1977年には解体されてしまう。その跡地はスポーツセンターや警察署、そして草野球場に転用されている。周囲の街並みは、ずっと変わらず下町である。
とはいえ、スタジアムの時代からさらにさかのぼると、明治の初め頃までこの一帯は東京の外、いわば町外れだった。旧日光街道沿いの南千住、ついで荒川(隅田川)を渡った先の北千住一帯は旧宿場町の市街地が形成されていたが、三ノ輪橋停留場付近はまだまだ市街地というにはほど遠かったようだ。