「正常性バイアス」の罠
Aさんは事故を振り返って「最初に冬眠穴ではないと判断した自分を肯定したい気持ちがあったかもしれない。私の判断ミスと油断が事故を招いた」と反省の弁を述べているが、興味深いのは内山が記事の中で、Aさんがこのとき「正常性バイアス」の罠に陥っていた可能性を指摘している点だ。正常性バイアスとは、災害心理学などで使用される用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりする認知の特性を言う。
「ああ、でもそれに気付いたのは僕じゃなくて岩崎なんです。記事を書く前にAさんのインタビューの起こしを岩崎にも読んでもらって、『どうしてこんなことになったんだろうね』という話をしていたら、岩崎が『これ、正常性バイアスじゃないですかね』と言ってくれて、確かにそうだ、と。一人で書くと自分の視点だけになっちゃうんですけど、こうやっていろんな視点から見ることができるのがチームでやることの強みだと思います」
その岩崎志帆は、なぜ正常性バイアスの可能性に思い至ったのか。
「普段からヒグマによる事故は防災系の話に通じるものがあるな、と思っていたんです。津波とかで避難が遅れる理由って、『まあ、ここは大丈夫だろう』という正常性バイアスが働いてしまうわけですが、自分自身も山に登るときに『この山ならクマは出ないだろう』というバイアスが働いていることに気付いてたんです」
実際に岩崎には、そんな経験があったという。
「何年か前に、道北の低山に一人で登ったんですけど……」
登山道に入って間もなく、「ものすごい獣臭」がしてきた。周囲にはシカの足跡がたくさんついている。
「『シカかな、クマかな。よくわからないな』と思いながらも登り続けたら、そのうち背後からものすごい重低音が聞こえ始めたんです。『クマの唸り声? いや、風の音かな』とか一人でモヤモヤしながらも、音がする後ろの方へ戻るわけにもいかず、結局そのまま登り切っちゃったんですけど、今思い返すと、あそこで死んでいてもおかしくないと冷や汗をかきます。あれ以来、一人では山に登らないようになりました」
岩崎はこう続ける。
「三角山の事件にしても、クマの専門家ほどこれまでの経験に基づいて状況を判断します。だから現在進行している現実の方が、過去の経験を越えてきた場合、バイアスの罠に陥りやすくなるのかもしれません」
クマ担配属初日に「三角山」事件に遭遇した尹もまた、専門家の判断をも狂わせる「現実」を目のあたりにし、独自の視点でヒグマ問題に切り込んでいく。
写真=松本輝一/文藝春秋