主人公エリザベスを超える(?)実在のスーパー女性科学者
本書の魅力を3つ紹介すると言ったが、番外でもう1つ。エリザベスが「料理を化学的に説明し、それが全米の女性から圧倒的な人気を得る」とか、エリザベスの本当の研究テーマは「生命起源論」だとか、あまりにファンタジックと思われるかも知れない。もちろん小説的にはすごく面白いから多少荒唐無稽でも読んでいていっこうにさしつかえない。
でも私はそこにも興奮したのだ。なぜならそれは決してフィクションではないから。たまたまだが、昨年の秋、湯澤規子著『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)という本を読んだ。日本とアメリカの女性労働者の連帯と闘いを「日常茶飯事(日常の食事やおやつ)」という視点から読み解くこの本もめちゃくちゃ面白いのだが、日米の女性をつないだキーパーソンとしてエレン・スワロウ・リチャーズ(1842-1911)なる女性化学者が登場する(以下は『焼き芋とドーナツ』をもとにマサチューセッツ工科大学やウッズホール海洋生物学研究所のホームページも参照している)。
エレンはマサチューセッツ工科大学で初めて学位(学士)を取得した女性とされている。女性だという理由で博士号をとることができなかったものの、鉱山学者で彼女を同等のパートナーとして認めてくれる夫と結婚、家庭を化学(科学)研究の対象にすえて、ありとあらゆる活動を行った。子供や女性、労働者といった社会的弱者が栄養豊かな食事をとることができるように、科学の見地から料理を実演解説するという手法を考案したり、『アメリカン・キッチン・マガジン』という科学料理雑誌を創刊したりして大人気を得た。
現代の私たちが当たり前に使っている「タンパク質」「炭水化物」「カロリー」といった概念を(どうやら世界で)初めて大衆に教えたのも彼女である。エレンは学校給食、家庭科、家政学、公衆衛生学の始祖とされているという。
さらに彼女はアメリカの女性教育協会を説得して海辺(小説のようにカリフォルニアではなく東海岸だが)に女性も受け入れられる生物学研究所を開設。その研究所はのちにウッズホール海洋生物学研究所となり、単一の研究所としては世界最多の60名ものノーベル賞受賞者を輩出することになる。それにはDNAの二重らせんを発見したジェームズ・ワトソンや発達生物学への研究に大きく寄与した下村脩や本庶佑も含まれる。「生命起源論」の一大拠点になったのだ。ちなみに、津田塾大学を創設した津田梅子も1891年にこの研究所で学んでいるという。彼女もまた生物学者になりたくてもなれず、後進の女性の教育に人生を捧げた人だった。
ほら、エレンはエリザベスそっくりではないか。そんなスーパー女性化学者がもっと昔に実在したのだ。女性だからという理由で不当に評価が低いが(日本ではほぼ無名である)、その業績は質量ともにまさにレオナルド・ダ・ビンチ級。
真に驚くべきは、エレンが「家庭、自然界、そして人間の健康はすべて相互につながっており、科学は学際的であるべきだ」と考え、1892年、「エコロジー」(生態学)という新しい分野を提案する講演を行ったという事実だ。ただし、博士号ももたない女性の言うことだけにこの斬新すぎる提案が受け入れられることはなく、環境問題やエコロジーの概念が広まるのはそれから数十年後に現れる別の女性科学者レイチェル・カーソンを待たねばならなかった。それにしてもエコロジーがアウトドアではなく「インドア(主婦目線)」から始まったとは仰天ものである。