全世界600万部に達した、3つの普遍的魅力とは
日本人にとって馴染みのない60年前の外国が舞台でそんなに盛り上がれるのか? と思うかもしれないが、全世界で600万部の大ベストセラーとなり、Apple TV+で(『レッスン in ケミストリー』として)ドラマ化されているのは伊達ではない。文化背景や個人の好みを超えた、普遍的な面白さがあるのだ。
なぜこの本がそこまで読者を引きつけるのか。これまたあまりにも多くの要素があるのだが、あえて3つに絞ろう。
まずはウィットに富んだユーモア。実は私は本屋でたまたまこの本を見つけて冒頭部分を読んだのだが、最初の4行目で噴き出してしまい、「立ち読みして笑ったら『負け』と認めてその本を買う」というマイルールに従い、購入したのだ。読了してみれば、その4行目のユーモアは作品全体の特質をあらわしていた。このユーモアがあるために悲惨な場面も無理なく読める。言い換えれば、ユーモアが織り交ぜられているからこそ、リアリティをもったきつい主人公の苦難を同時に体験することが可能となる。
次にキャラクター。決して空気を読むことなく自分が正しいと思ったことを実行し、絶対にぶれない主人公エリザベスがとにかく格好いい。娘のマッドは母親の賢さと忖度のなさを受け継ぎ、大人をドギマギさせる。周囲の女性たちもこの親子に感化され、どんどん変化していく。
このようなフェミニズムやシスターフッドの色彩が濃い小説は、男性の私には読むのがきついことが少なくない。責められている気分になっていたたまれなくなるからだ。でも本書では救命ボート的なキャラがちゃんと用意されている。家父長制の権化のような上司の言いなりになりつつも、決してエリザベスに強気に出られないどころか彼女に圧倒されてばかりいる、シングルファーザーのTVプロデューサーとか、今一つ神を信じられなくて自分の職業にも疑いを持っている牧師とか。男性読者はこれら「役立たずでやさしいダメ男」たちに感情移入して安らぐことができる。
最後にミステリ要素。私はR. D. ウィングフィールドのフロスト警部シリーズの大ファンである。いくつもの事件が錯綜しながら進んでいく「モジュラー型」と言われるミステリ様式にあらがえない魅力を感じている。とはいえ、著者が亡くなった今、もはや新作は望めず、かといってその穴を埋める作品にも出会っていない。そんな私にとって本書は思いがけない福音だった。ミステリ小説ではないにもかかわらず、あちこちにちりばめられた伏線が片っ端から回収され、全然つながりがなさそうなキャラクターやエピソードの意外すぎる連鎖が最後の大きな謎の解明に収斂していくという構造がフロスト警部シリーズ並みの興奮と満足感を呼び起こすのだ。