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 だが祖母はハルモニではない。植民地だった朝鮮で女子教育を行うため日本から派遣された。そこで地元の女性からキムチの漬け方を教わったという。戦後は逆に日本の女性たちにキムチの漬け方を伝えることになる。だがキムチとは呼ばず「朝鮮漬け」と呼んだ。106歳で亡くなるまで、祖母にとっての朝鮮は戦前の記憶のままだった。

 映画では植民地時代の小学校教育について、1927年生まれの崔命蘭(チェ・ミョンラン)さんが体験を語るシーンがある。

「『私どもは大日本帝国の臣民であります』、というのは毎朝やったし。小学校3年生になったら韓国語は話できないんですよ、学校で。日本語しか話せなかったんです。毎日、神社に参拝して。軍歌も知ってますよ。まあ、そんなもんかなあと思っただけで」

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生活のため、強制連行。日本に来た理由は様々

 祖父は教師だったからこういう教育をする立場だったのだろう。そして迎えた1945年8月15日。

「みんな踊ったり、大騒ぎしてるんですよ。何があったのかと思ったら、終戦になったって」

 同じ日のことを祖父が生前、語ったことがある。

「その夜、近くの神社が焼き討ちにあった。それを見て『日本は負けたんだ』と実感した」

©Kimoon Film

 祖父母一家は南下してくるソ連軍から逃れて半島南部へと脱出し、船で日本に引き揚げた。立場はまるで違うが、朝鮮の人たちも戦後の混乱で職を失い、生活のため日本に渡った人たちがいる。ミョンランさんもその一人だ。このように在日一世が日本で暮らすようになった事情は様々で、戦時中の強制連行で連れてこられた人もいる。川崎市桜本は軍需工場があったことで、労働者として朝鮮半島の人たちが集まった。

 だが、そういう人たちがこの国で暮らしていることが気に入らないという人がいる。「出ていけ」と叫ぶ。ヘイトスピーチだ。桜本にそんな一団が押しかけた。それを許すまじと集まるカウンター(対抗)の人たち。現場に駆け付けたハルモニの言葉が光る。

「いくら表現の自由とは言ってもですね、人を虫けらのような言い方をしたり、死ねの殺せの、そういう言葉は許してはいけないと思います」

©Kimoon Film