いまも伝説のように語られる「売春島」――。売春が公然の秘密とされる文化はなぜ生まれ、そしてどう消えていったのか。

 江戸時代を発端とする売春島の歴史を、風来堂編著『ルポ 日本異界地図』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

かつて三重県に存在したナゾの歓楽エリア「売春島」とは――(写真:アフロ)

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ナゾの歓楽エリア「売春島」はなぜ消えた?

 いまも伝説のように語られる「売春島」がある。三重県志摩市の的矢湾に浮かぶ渡鹿野島だ。男性向けの週刊誌などでは、たびたび潜入ルポが掲載され、この島での売春は、いわば公然の秘密となっていた。

 渡鹿野島が売春島となったのは江戸時代ごろといわれる。江戸と大坂を結ぶ航路が盛んになると、多くの船が風待ちのために立ち寄った。すると、船乗りの男たち相手に野菜を売ったり、洗濯や針仕事を請け負ったりする女性たちが現れ、さらに夜の相手も務めるようになった。明治時代には彼女たちは陸に上がり、島の遊廓で働いた。遊廓は太平洋戦争後も続いた。

三重県の渡鹿野島(画像:Googleマップより)

 売春防止法施行以降は島での売春業も一時廃れる。それが息を吹き返し始めたのは1960年代だ。4人の女性が島にやってきて、それぞれが娼婦を斡旋する置屋を開いた。置屋経営者のうちのひとりは、のちに島一番ともいわれた旅館の経営者にまでなった。

 しかし、次第にこの盛況ぶりにも陰りが見えてくる。1980年代後半から娼婦は日本人女性から賃金が安い東南アジアの女性たち中心へと変わっていった。2000年代には浄化活動が盛んになり、2016(平成28)年の伊勢志摩サミットの前年には島内に警察官が配備され、娼婦たちのほとんどが姿を消した。

 島では観光地を目指して浄化活動とともにビーチをつくったりしている。近年は女性客が増えたり、コロナ禍で修学旅行生を受け入れたりと、クリーンなイメージに生まれ変わりつつあるようだ。