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日中関係の特異な変遷

 戦後、とりわけ1972年の国交正常化以降の日中関係の変遷は特異で奇妙なものだった。

 1970年代、日本政府に台湾との外交関係を断念させて日中国交正常化を実現した中国外交官が異口同音に発した合言葉は、「日中友好」。これは日本側にも伝播し、大東亜戦争(筆者注:「太平洋戦争」とは呼称しない。当時の日本政府が採用した名称であるとともに、戦争の本質が中国を巡るものであったことを考えると、大東亜戦争の方が適切と考えるからである)の最中や戦争前の行為に対する贖罪意識に捉われた政治家、財界人、官僚の間だけにとどまらず、マスコミ、言論界を含めて広く日本社会でも暫くの間「日中友好」ムードが世の中を席巻していくこととなった。

 私は、外務省にあってはいわゆる中国(チャイナ)スクールではなく、米国ニューヨークのコロンビア大学大学院で研修したアメリカンスクールだった。だが、1990年代後半には中国課の首席事務官を務めたことがある。日中関係を所掌する中国課が中国語研修のチャイナスクールだけに偏ってはならないとの昔からの配慮で、課長に次ぐ首席事務官にはチャイナスクール以外の者が就くことが多い。私もその一例だった。そして、1998年夏、中国課勤務を終えた後に香港の総領事館に派遣され、さらに2年間にわたってナンバー3の総務部長ポストを務めることとなった。

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 外務省のいかなる課でもそうだが、中国課にあっても首席事務官はほぼすべての決裁文書に目を通し、精査して決裁する役回りだ。当時、チャイナスクールの担当官が起案して首席事務官の決裁を求めて上がってくる総理や外務大臣の発言要領の中に、「日中友好」というセリフが何と多く盛り込まれていたことか! その適否について何ら議論することもなく、いわば条件反射的に使われていたのだ。日米関係に携わる外務官僚が「日米安保堅持」を言い募る性癖を想起させられた。むろん、文脈やその当否に照らし、似て非なる実態だが、呪文のように繰り返す有様には心底驚いた。まさに、思考停止そのものだった。

 あれから、ほぼ四半世紀。状況は大きく変わった。時代が音を立てて変わったと言って過言ではないだろう。その最たるものが戦狼外交なのだ。

福島処理水を巡る中国の容喙

 今、外交慣例ではおよそ理解できない異様なことが起きている。2023年8月に始まった東京電力福島第一原発での処理水の海洋放出に対する中国政府の執拗な問題提起だ。国際原子力機関(IAEA)の理解と協力を得て、「科学的に安全」との専門家のお墨付きも得られているにも拘らず、国際社会にあって中国政府が公の場で先頭に立って繰り返し、かつ、声高に、「汚染水を海洋放出する日本は無責任」だとキャンペーンを張っているのである。国際社会、とりわけ北朝鮮や太平洋の島嶼国に対して同調するよう働きかけているのも明白だ。

 元はと言えば、この問題は、未曾有の被害と犠牲が発生した東日本大震災に遡る。震災直後に寄せられた国際社会からの温かい数々の支援、とりわけ台湾からの義捐金の額が突出していたことは多くの日本人の記憶に鮮明だ。

 あれから苦節十余年。福島を始めとする被災地の人々の血のにじむような努力、国内外の同情と支援があって復興は相当程度進んできた。その復興をさらに前に進める大きな一里塚としての処理水海洋放出なのである。